近藤荒樹

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死没 (1986-06-11) 1986年6月11日(97歳没)
職業 実業家
こんどう あらき
近藤 荒樹
生誕 (1889-03-06) 1889年3月6日
日本の旗 日本広島県賀茂郡西志和村(現在の東広島市
死没 (1986-06-11) 1986年6月11日(97歳没)
出身校 東京高等商業学校
職業 実業家
子供 近藤荒一郎(長男)
近藤喜太郎
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近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年3月6日 - 昭和61年(1986年6月11日)は、日本実業家相場師。近藤商事会長。「丸ビル将軍」、「金融王」などと呼ばれた。

広島県賀茂郡西志和村(現在の東広島市)に近藤喜太郎の二男として生まれた[1]

1906年に上京し陸軍大将福島安正書生となり、旧制成城中学校を経て、1913年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業。三菱合資会社に入社し、鉱山部に勤務[1]。三菱の串田万蔵の知遇を得る[2]

1922年に三菱合資会社を退社し、退職金6000円を元手に近藤荒樹営業所を開設[1]。金融業、不動産業、株式投資を行うようになる。株式相場杉野喜精に師事[2]関東大震災後に国立の土地を、坪3、4円で35万坪買い、世界恐慌直前に坪40円前後で売り大きな利益を得、その金で鐘紡の個人筆頭株主となる[3]

相場で大敗したのち、1946年11月に近藤商事を設立し[1]、再び不動産投資及び株投資を行うようになる。1957年には長者番付6位となった[4]如水会常務理事等も務めた。墓所は多磨霊園(5-1-19)。

人物像

近藤は、いわゆる「庶民金融」の草分けで、池田勇人(元首相)が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年(1957年)頃は、高額所得番付で全国六位にランクされるほどの資産家だった[5]。池田の長女直子と荒一郎の結婚は昭和33年(1958年)1月[5]。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた[5]

趣味はテニスで、一橋庭球倶楽部初代会長、日本庭球協会顧問、日本テニスクラブ理事長を務めた。一橋庭球倶楽部が戦災で活動が停滞していた中、'56一橋庭球倶楽部初代会長となり、テニス部のクラブハウスをポケットマネーで建立し、テニスコート(クレイコート)4面も寄付している。

家族

近藤家

広島県東広島市東京都

脚注

参考文献

外部リンク

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