近野信雄

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死没 (1944-03-13) 1944年3月13日(44歳没)
八丈島西方海面
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1921 - 1944
近野 信雄
生誕 1899年7月23日
山形県東置賜郡亀岡村
死没 (1944-03-13) 1944年3月13日(44歳没)
八丈島西方海面
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1921 - 1944
最終階級 海軍少将
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近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 1944年3月13日)は、山形県出身の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校48期卒業。太平洋戦争中に護送船団を指揮するが戦死。最終階級は海軍少将従四位勳二等[1]米沢海軍武官会会員[2]

1899年(明治32年)に山形県で生まれる。生家の近野家は上杉謙信所縁の一族、毘沙門天信仰[3]大日本帝国海軍職業軍人の家系[4]山形県立米沢中学を卒業後、海軍兵学校に入学し、第48期で卒業。海軍軍人としては1942年(昭和17年)頃まで駆逐艦長、戦艦副長など海上勤務が中心であったが、1944年(昭和19年)1月7日に機雷学校教頭兼研究部長となる。

1944年3月には東松2号船団運航指揮官として前線に戻り、海軍徴用輸送船「国陽丸」に乗船。船団部隊の総指揮を執る第11水雷戦隊司令官の高間完少将の下で、輸送船12隻の統制にあたる。3月11日、八丈島西方をサイパン島に向け航行中のところ、アメリカ潜水艦「サンドランス」の攻撃を受けて「国陽丸」が沈没[5]。この際に行方不明となり、3月27日付で戦死と認定された[6]。同時に雷撃された軽巡洋艦「龍田」座乗の第11水雷戦隊司令部は、「龍田」が航行不能(10時間後に沈没)となったために駆逐艦「野分」に移って船団の指揮を継続したが[7]、近野大佐は40分ほどかかった「国陽丸」沈没時に退艦しなかった。[8]戦死後に少将。

年譜

その他

脚注

参考文献

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