通法寺裏山古墳
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別名
通法寺裏山古墳
位置
北緯34度31分38.28秒 東経135度37分37.85秒 / 北緯34.5273000度 東経135.6271806度座標: 北緯34度31分38.28秒 東経135度37分37.85秒 / 北緯34.5273000度 東経135.6271806度
形状
前方後円墳
| 通法寺裏山古墳 | |
|---|---|
|
通法寺旧境内と後背丘陵 | |
| 別名 | 通法寺裏山古墳 |
| 所在地 | 大阪府羽曳野市通法寺(字延寿谷) |
| 位置 | 北緯34度31分38.28秒 東経135度37分37.85秒 / 北緯34.5273000度 東経135.6271806度座標: 北緯34度31分38.28秒 東経135度37分37.85秒 / 北緯34.5273000度 東経135.6271806度 |
| 形状 | 前方後円墳 |
| 規模 | 墳丘長60m |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 出土品 | 埴輪片 |
| 築造時期 | 4世紀後半 |
| 史跡 | なし |
| 地図 | |
通法寺裏山古墳(つうほうじうらやまこふん)は、大阪府羽曳野市通法寺にある古墳。形状は前方後円墳。史跡指定はされていない。
大阪府南東部、石川東岸の大黒丘陵から西に張り出した丘陵尾根上に築造された古墳である[1]。尾根南麓には通法寺跡(明治期に廃寺)が所在し、かつては通法寺の境内に含まれて墳丘上に社が存在した[1]。2017年度(平成29年度)に範囲確認調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を西[1](または東[2])方向に向ける。墳丘は流出のため明確でないが、墳丘長は60メートル程度を測る[1]。墳丘外表で葺石の存在は明らかでないが、円筒埴輪・形象埴輪(家形・盾形埴輪)が採集されている[1][2]。埋葬施設は明らかでなく、昭和45年度の踏査では埋葬施設は全壊で粘土槨と推定する(石材が認められないことが根拠か[1])。
築造時期は、古墳時代前期後半[1]の4世紀後半頃と推定される。付近では前期古墳として壺井丸山古墳・御旅山古墳が分布し、これらに後続する首長墓と想定される[1][2]。
遺跡歴
- 長久4年(1043年)、通法寺の創建伝承(江戸時代の『通法寺興廃記』・『河内源氏詞之伝』など)[2]。
- 元禄13年(1700年)、通法寺の再興[2]。
- 享和元年(1801年)刊行の『河内名所図会』の通法寺境内図に、古墳位置に社の記載(当時には稲荷山と呼称)[1]。
- 明治6年(1873年)、廃仏毀釈に伴う通法寺の廃寺[2]。
- 戦後、果樹園として開墾か[1]。
- 1970年度(昭和45年度)、分布調査(踏査)。古墳として確認。前方部を東に向ける前方後円墳と推定、埴輪片の採集(大阪府教育委員会、1971年に報告)[1]。
- 1985年度(昭和60年度)、分布調査(踏査)。前方部を西に向ける前方後円墳と推定、埴輪片の散在の確認(羽曳野市教育委員会、1986年に報告)[1]。
- 2011年度(平成23年度)、通法寺跡の発掘調査の際に埴輪片出土(羽曳野市教育委員会、2013年に報告)[2]。
- 2015年度(平成27年度)、航空レーザー測量調査(羽曳野市教育委員会、2017年に報告)。
- 2017年度(平成29年度)、範囲確認調査(羽曳野市教育委員会、2019年に報告)。
