進士晴舎
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『大舘常興日記』天文9年(1540年)3月30日条などによると、父・進士国秀は前年に奉公衆の諏訪長俊と所領を争った落とし前として剃髪し、その代わりとして息子の晴舎が奉公衆に参加したという。ただし、同条に登場する国秀の息子とされる九郎は天文20年(1551年)に足利義輝の命令で伊勢貞孝邸にいた三好長慶を暗殺しようとして失敗して自害した進士賢光のことであるとの指摘がある[2]。進士氏関係の文書を分析した教育学者の君島茂(平安女学院大学名誉教授)は、『足利季世記』(巻五)には九郎賢光を「美作守(晴舎)が甥」と記していることから、その父親である先代当主・国秀は晴舎の兄であるとしている(この場合、国秀の父とされる進士国為が晴舎の父と言うことになる)[3]。
『大舘常興日記』天文10年(1541年)10月3日条には、五番衆として進士長門守澄胤、進士新次郎晴舎の名前が見える。
永禄8年5月19日(1565年6月17日)の永禄の変では、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)らは清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して二条御所に押し寄せ、将軍・足利義輝に「訴訟(要求)あり」と取次を求めた。そのため、申次の晴舎は訴状を受け取り、その取次に往復したが、三好勢がその間に御所に侵入して攻撃を開始した[4]。
そして、死を覚悟した義輝が最後の酒宴を行うと、晴舎は敵の侵入を許したことを詫びて、その御前で切腹した[5]。ただし、晴舎は三好氏・松永氏との取次役であり、交渉決裂の責任を取ったとも、彼が自害したことで三好方から交渉決裂・手切とみなされて攻撃が開始されたとも考えられる[6]。
嫡男の藤延も父や義輝と共に討たれ、娘である小侍従局も後に殺害された。子孫とされる加賀藩士進士家の史料によれば、一色義辰(進士家の史料では「義時」)の子が進士家の婿養子として賢光あるいは藤延の家督を継いだとみられ(賢光・藤延共に不慮の死を遂げたことで父親の代に分かれた両進士家が統合されたと推測される)、『永禄六年諸役人附 光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚』に進士聟法師(本によっては知法師)、その後の史料では進士作左衛門(実名は貞連あるいは政之)と称して明智光秀に仕えた人物と同一とされている。加賀藩士進士家の史料では光秀の死後は細川忠隆(光秀の外孫)に仕え、忠隆の廃嫡後に彼に従って細川家を去って忠隆妻の実家である前田家に預けられてその家臣になったと伝えられている[7]。