進士氏

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進士氏
家紋
丸に頭合わせ三つ五三桐まるにあたまあわせみつごさんのきり[2] [3]
家祖 不詳
種別 武家
主な根拠地 伊豆国堤坂城[4]
伊勢国富田城 (伊勢国)
著名な人物 進士美作守晴舎
進士源十郎藤延
進士九郎賢光
進士美濃守(堤坂城主)
進士作左衛門貞連
凡例 / Category:日本の氏族

進士氏(しんじし、しんしし、にいがたし[5])は、日本氏族のひとつ。

進士を号した主な人物

景光とその弟子ないし親族と思われる景政との合作になる太刀。長文の銘文によると、秩父国埼玉県)出身の播磨国兵庫県)の地頭であった大河原時基嘉暦4年(1329年)長船から景光と景政を播磨国宍粟郡三方西(兵庫県宍粟市)に呼んで作刀させ、広峯神社兵庫県姫路市)に奉納したものであることが知られる。刃文は景光が得意とした直刃小丁子乱れである。

武家進士氏

  • 鎌倉時代には、吾妻鏡御家人として進士基度進士光政進士隆邦などが現れる。
  • 三日平氏の乱の時には猪名部・春澄氏庶流の進士行綱が捕らえられるが、伊勢平氏庶流進士基度らの主謀とわかり進士行綱は無罪となる。
  • 室町期には、番帳類に進士氏一族の名がみえ、幕府奉公衆であったことがわかる。広島大学文学部に進士文書が所蔵されており、これらによると南北朝室町時代の進士氏は足利将軍家ゆかりの地に所領を有していたことがわかる。将軍食膳の調理を進士氏が世襲しているのは、室町時代に、庖丁道の一つ畠山流の由来、その仕立て方、庖丁式、食事作法など膳部一切を旗本進士次郎左衛門尉へ伝えたことにより進士流という料理の流派が起こる。その後、進士氏が供御職を世襲していく。見聞諸家紋によると進士氏の家紋は"丸に頭合わせ三つ五三桐"である。
  • 永享9年6月に将軍足利義教伊勢神宮に参宮する途中で食事が原因で体調不良を起こした。それに激怒した義教は責任者であった御膳奉行の進士氏行を捕らえて近衛河原で処刑してしまった。なお、一緒に処刑を命じられた息子・九郎は間一髪難を逃れて逐電した(『看聞日記』永享7年9月11日条・『師郷記』同日条)。足利義政時代の幕臣・進士重行は九郎左衛門尉を称していることから、逐電した九郎が赦免された後の姿とみられる[7]
  • 天文20年(1551年)、将軍足利義輝政所執事伊勢貞孝邸で三好長慶が酒宴を行うとの情報を得て、その場で長慶を暗殺しようと奉公衆の進士賢光を伊勢邸に派遣した。賢光は酒宴中に長慶に抜刀して向かっていったが軽傷を負わせたのみで暗殺には失敗してしまい、その場で自害して果てた。
  • 永禄の変では、奉公衆の進士晴舎(しんじ はるいえ)の名がみえる。晴舎は賢光の叔父(父の弟)にあたる。三好・松永勢は清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありとして取次ぎを求めた。進士晴舎が訴状の取次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した(主導は松永久秀の息子松永久通三好義継)。将軍方は激しく応戦し、その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹した。足利義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。しかし、多勢に無勢の中、昼頃には義輝主従全員が討死し、その中には晴舎の息子進士藤延もいた。将軍生母の慶寿院近衛尚通の娘で12代将軍足利義晴正室)も自害した。義輝正室大陽院近衛稙家の娘)のほうは近衛家へ送り届けられたが、義輝の寵愛を受けていた側妾小侍従局(進士晴舎の娘)は殺害された。永禄の変以降、進士氏は勢力を弱体化するも存続する。
  • 戦国武将明智光秀譜代衆で進士作左衛門(進士貞連)がいる。 細川家記によると、明智光秀の死後(山崎の戦い)、細川興秋に仕えている。後述の子孫と称した加賀藩士進士家の由緒書には兄の細川忠隆に仕えたと記されている。忠隆・興秋共に光秀の外孫で、後に細川家を出奔せざるを得なくなった点で共通している。
  • 加賀藩給帳に進士齋宮(職制区分:平士並以上/禄高:620石/居所:長町四番丁)などの名がみえ菩提寺は臨済宗妙心寺派の高厳寺である事がわかる、現在の長町四番丁の氏神神社は日本七明神の金沢神明宮
  • なお、上記の加賀藩進士家の由緒書では、進士作左衛門は名前を政之と言い、光秀の死後は細川忠隆に仕え、彼が廃嫡された際に同行して前田家に赴いた。しかし、前田家が受け入れを拒んだため、忠隆は作左衛門を前田家に預けて京都にいる祖父・幽斎の下に向かった。作左衛門は前田家に700石で召し抱えられ、上記の齋宮は7代目の子孫にあたり嘉永6年に死去したという[8]
  • 進士家の文書を分析した教育学者の君島茂は、一色義辰(進士家の由緒書では「義時」と表記)の子が進士家の婿養子として家督を継いだのが進士作左衛門だったのではないかとしている(進士賢光は三好長慶暗殺未遂事件で、進士藤延は永禄の変で死去しているため、どちらの系統も後継者を必要とする)。なお、『永禄六年諸役人附 光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚』に登場する「進士知法師」(異本では「聟法師」)は後の進士作左衛門のことであり、彼が進士家の聟(婿)であったことを示しているとしている[9]
  • 三百藩家臣人名事典2には、土浦藩士で宝暦十年〜文政十年1760年〜1827年進士勘右衛門(はじめ権之助、長じて清蔵、さらに勘右衛門のちに勘左衛門と称す。)が載る。常陸河内郡女化の助郷一揆が起こり、鎮圧のために幕府から土浦藩にも出兵が要請され、これに応えることにして出兵した。四番手組を務めたのが勘右衛門である。
  • 三百藩家臣人名事典2及び幕末維新人名事典には、弘化ニ年〜明治二十六年1845年〜1893年進士仙吉(義道)父は進士清蔵が載る。文久ニ年閏八月の幕府の大改革によって、大半の江戸詰藩士が土浦に引き揚げることになり、仙吉らは文久三年秋に常名新屋敷に移ってきた。藩士子弟のために藩校分館が設置された時には句読師に任ぜられ藩士子弟の教育にあたった。石岡小学校の初代校長となり同校草創期の教育発展に尽力し、石岡地方の公立小学校の基礎を確立した。

系譜

凡例太字当主、太線は実子、細線は養子

   進士氏 祖美作守 一色左京大夫子孫 義時子 左馬助為督養改作左衛門 其二三男 也
   ┏━━━━━━━━━━━━━┓
作左衛門        彦兵衛
   ┣━━━━━━━━━━━━━┓
 権兵衛           女
   ┃
 源兵衛
   ┣━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓                                             源兵衛尊登       権丞武董                  女
   ┃              ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
 権兵衛         武兵衛武明      兵左衛門      女
   ┣━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓          ┣━━━━━━━━━━━━┓
源兵衛直内   源三朗     逸右衛門     数馬      源蔵武保
   ┃                     ┃          ┃
  斉宮                源左衛門武成   弥門
  • 「明智氏一族宮城家相伝系図書」(東大史料編纂所蔵)
  • 「細川家家臣三宅系図」(熊本県安国寺蔵)
  • 「進士春日部系図 伊勢平氏」

進士氏の主な分布集落

進士氏の家紋

進士氏の著名人

政治家

学者

軍人

俳優

スポーツ選手

その他

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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