遅塚忠躬
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1932年(昭和7年)、東京都生まれ。高校時代にアナトール・フランス『神々は乾く』を手にしたことからフランス革命への関心を深めたという[1]。東京大学文学部西洋史学科に進学し、当時フランス史を講じていた高橋幸八郎の薫陶を受ける。卒業後にフランス政府給費留学生として渡仏[1]。1956年から61年にかけて、大部なフランス通史を著したアーネスト・ラブルース[英語版] や、地域史・農民生活に関心を寄せていたジャン・ムーヴレ [英語版] といった歴史家の活動に触発され、アンシャン・レジーム期におけるノルマンディー地方の土地所有形態について研究を開始した[1]。このときの遅塚の手法は各地に点在する文書館を自らオートバイで回って古文書を発掘・解読するというもので、生活費の窮迫からしばしば地方役場に寝泊まりすることもあったという[1]。この調査結果を革命前期〜革命期(1734-1793)における農民生活と革命史の研究にまとめて学位を取得した[1]。
帰国後は北海道大学准教授、東京都立大学教授などを歴任しながら、渡仏しての古文書調査を継続する。同学年・同窓だったフランス史家・二宮宏之らとともに、他を圧する緻密な現地調査にもとづく新しいフランス近代史・フランス革命史像を示し、長く欧米の大家が著した原書の精査によるほかなかった日本における西洋史研究の姿を、大きく刷新した[2]。
1985年から東京大学西洋史学科教授に就任。翌1986年にそれまでの研究をもとに、フランス革命期の恐怖政治を主導したロベスピエールと、国民公会の司祭ドリヴィエを軸として、普遍的な理想を掲げたフランス革命がなぜ残酷な粛清と圧政へ転じたかを探ろうとする『ロベスピエールとドリヴィエ』を刊行、これが主著のひとつとなった[3]。以後は一般向けの著作や講演活動を行うほか、1990年代以降に日本の歴史学分野でも生じた「言語論的転回」論争を機に、歴史理論についての哲学的考察へも歩みを進めている[4][5]。
2010年に78歳で死去[6]。各大学への歴任、また国際的な歴史家コロキアムなどを通じて、その快活な人柄が広く敬愛され、多くの追悼文が記された[7]。フランス政府から教育功労賞(Ordre des Palmes académiques)授与[1]。