遠山友忠
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苗木遠山氏継承と領内統制
美濃国恵那郡の飯羽間遠山氏当主遠山友勝の子として生まれた。永禄12年(1569年)、苗木遠山氏当主遠山直廉が大威徳寺の戦いで戦死すると、父友勝が織田信長の命により苗木城主となり、これに伴って友忠は飯羽間城主となった。同年、領主交替が続いたことにより苗木領内では一揆が発生し、福岡村の曽我與左衛門父子の放火事件をはじめ、付知村の遠山玄蕃・備後父子の反乱、加子母村の大嶋輿十郎や加茂郡大野村の安江政村父子らの動きを鎮圧して勢力を安定させた[2][3]。
武田氏侵攻と織田政権下での活動
同年12月、武田氏重臣秋山虎繁の侵入によって上村合戦が起こり、友忠は父友勝や遠山景行、奥平氏などの山家三方衆とともに迎撃したが敗北した。その後東美濃は織田信忠の与力河尻秀隆の指揮下に入り、友忠もこれに属したとみられる。元亀2年(1571年)9月12日(9月30日)には比叡山焼き討ちに参戦し、『信長公記』には苗木久兵衛の名で記されている。その後長男遠山友信に飯羽間城を譲り、自らは明照城に移ったが、父友勝の死去後は次男遠山友重に明照城を任せ、三男(嫡男)遠山友政を伴って苗木城に入った[4]。
東濃諸城攻略と武田氏との抗争
元亀3年(1572年)、遠山景任の死去により岩村遠山氏が断絶すると、信長は四男織田勝長を養嗣子として送り込んだ。続く元亀4年(1573年)8月には加茂郡野原城を攻略して城主安江左内正友を敗走させ、さらに木曾方面への進攻も試みたが木曾氏家臣原平左衛門の反撃を受け損害を出した。天正2年(1574年)2月には武田勝頼の東濃侵攻により苗木城および支城16か所が落城し(飯羽間城の戦い)、続く天正3年(1575年)の長篠の戦い後の岩村城の戦いでは武田方に属した遠山氏諸将の多くが自害し、苗木遠山氏・明知遠山氏・串原遠山氏のみが存続した[5]。
甲州征伐と本能寺の変後の動向
天正10年(1582年)2月10日、木曾義昌の調略成功を織田信忠に取り次いだのは友忠とされ、その後も取次役として活動した。甲州征伐では木曾勢とともに先鋒を務め、友忠・友政父子は鳥居峠で武田方武将今福某を討ち取り、信長から感状を受けた[6]。一方で武田方に属していた友信は捕縛され処刑された[7]。同年6月2日(6月21日)の本能寺の変後には木曾義昌とともに帰還途中の森長可を討つ計画を立てたが失敗した。
森長可との対立と徳川家康への帰属
その後羽柴秀吉から森長可の指揮下に入るよう命じられたがこれを拒否したため、森長可は社僧圓仁坊を苗木城に派遣して服従の意思を確認させたが応じなかった。さらに幸田孫右衛門・各務元正らが苗木城を攻撃し、友忠・友政父子は法泉寺坂で迎撃したものの、その後の攻撃により敗れて一族や譜代家臣とともに退去した。その後は徳川氏家臣で奥三河田峰城主の菅沼定利のもとに身を寄せ、家臣団は徳川方として各地で戦ったとされ、友忠自身もその数年後に死去したと伝えられる[1]。