遼中京遺跡
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中京遺跡は現在の寧城県大明城のローハー河北岸に位置している[1]。遼の統和24年(1006年)、五帳院がもとの奚王の牙帳の地を進上した。統和25年(1007年)に築城が開始された。遼の中京とされ、大定府が置かれた[2]。この地に対する調査発掘は、1959年から1960年にかけて実施された[1]。
中京遺跡の構造は、外城・内城・宮城の3つの部分から成っている。外城は、南北3500m、東西4200mの長方形で、周長は15400mに達する。いわゆる馬面[注釈 1]は設けられていなかったが、四隅で隅櫓の基壇が確認されている。東壁・南壁・西壁にそれぞれ城門が設けられ、南壁の朱夏門から内城南壁の正門陽徳門まで、幅64mの幹線道が一直線に走っていた。この大道の両脇には、石板を用いて築き、木の板を蓋とした排水溝があった。また大道の左右両側では、それぞれ周囲を垣墻で囲んだ4つの坊区が確認された。さらに坊区を北にのぼった大道の両側でも、それぞれ長さ約250mにおよぶ細長い建築跡が発見されている。商業区域とみられる。このほか官署・駅館[注釈 2]・寺院などの遺構が確認されている[3]。
内城は外城の中央やや北寄りに位置し、平面は南北1500m、東西2000mの長方形を呈した。外城とは対照的に、城壁には馬面が設けられ、四隅の隅櫓はなかった。南壁中央の陽徳門から宮城南門の閶闔門まで、幅約40mの大道が走り、その両側に背の低い垣墻が築かれていたことは確認されているが、それ以外の建築跡は未発見である[4]。
宮城は内城の中央北寄りに位置し、外城と共用する北壁を除く東壁・南壁・西壁が築かれ、城壁四隅では隅櫓の遺構が確認されている。平面は1辺1000mの正方形で、ボーリング調査の結果、南壁の閶闔門には3本の門道が設けられていたことが判明している。また閶闔門から東西にそれぞれ180m離れた地点で、東西両掖門の遺構が見つかり、門内でもそれぞれ前後2区画の建築跡が発見された[5]。
このほか外城中央を走る大道の東北には、今なお八角形13層、高さ81.39mの密檐式磚塔[注釈 3]が建っている。遼の聖宗のときに建立された感聖寺舎利塔であると伝えられ、塔身に寿昌年間の題記が確認されている[6]。
脚注
参考文献
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。