天正14年(1586年)、那須資晴の子として誕生した。
天正18年(1590年)、父の資晴は小田原北条氏や伊達政宗などと手を結んでおり、豊臣秀吉には反抗的で小田原征伐の参陣要請に応じなかったため、一度は改易された。しかし那須氏重臣の大田原晴清[3]が秀吉に陳謝誓願したことにより、当時5歳であった藤王丸(資景)に5000石の所領が与えられ、那須氏は存続を許された。資晴も後に赦され、資景とは別に5000石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、伊王野資信らと共に会津の上杉景勝に備えた[4]。政権を奪った徳川家康により、資景は同年に300石を加増された。慶長7年(1602年)にも1000石を加増され、さらに一族の高瀬弥六に200石、大田原周防守に200石、那須八郎に880石、大田原弥次郎に440石が加増され、那須家の所領は計8080石となった。慶長11年(1606年)12月25日、従五位下左京大夫に叙任された[5]。
慶長15年(1610年)に父の資晴が没すると、遺領の6000石を継ぎ、合計で1万4080石の大名として那須藩を立藩した。慶長19年(1614年)・翌元和元年(1615年)の大坂の陣では本多正信隊に属し、落人の首75級を挙げた。
寛永元年(1624年)に資景は隠居し、家督を長男の資重に譲った[6]。しかし寛永19年(1642年)、資重は嫡子がいないまま父に先立って死去したため、那須藩は無嗣改易となった。ただし、資景はいまだ存命していたため5000石を与えられ、旗本として那須家の存続は認められた[7]。
承応元年(1652年)2月18日、青木利長の次男を養子に迎え、資弥を名乗らせた[8]。資弥と那須家の間には、血縁や所縁はない。資弥の姉のお楽の方(宝樹院)は、江戸幕府3代将軍徳川家光の側室であり、4代将軍家綱の生母であった。将軍の縁者である資弥はこのため、養子縁組以前に既に将軍近習の小姓として取り立てられており、俸禄として蔵米2000俵を支給されていた。この将軍家の縁者を、資景は那須氏の養子とした。資弥が那須氏の家督を相続し旗本となった後も、この蔵米2000俵の支給は続いた。
明暦2年(1656年)1月25日、死去。享年71。
家督を継いだ資弥は後年、5000石の加増を受けると同時に蔵米2000俵の俸禄が采地2000石に改められたため、合計石高が1万2000石となり、那須氏は再び大名に返り咲き、那須藩となった。