紀元前386年、趙は中牟から邯鄲に遷都した。紀元前228年に秦に滅ぼされるまで趙の国都であった[1]。現在の邯鄲市の南4kmに趙王城とよばれる城郭跡が残っている。王城跡は東城・西城・北城の3城が品字形に接した複郭構造を呈している。それぞれの規模は、西城が東西1392m、南北1416m、東城が東西935m、南北1434m、北城が東西1326m、南北1557mある。西城のほぼ中央に竜台とよばれる高さ19m、東西265m、南北285mの版築基壇があり、宮殿建築の基壇とみられる。
近年になって王城の東北至近の現代の邯鄲市を取り囲むように地表下に戦国期の城壁基部が発掘された。版築土壁の残高は3m - 12m、基厚は10m - 32m。その規模は東西3000m、南北4800mで、西壁にやや屈曲があるが、ほぼ長方形に近い平面を呈している。
築城時期は趙王城が春秋期以前にさかのぼり、ここが宮殿区であったと考えられる。近年発見の北大城はやや遅れて春秋末から戦国初期の築城で、一般民居区と作坊区であったと考えられる。