郭孝恪
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財産家の家に生まれたが、若いころは素行が悪く、無頼をきわめた。隋末の乱が起こると、郷里の数百人を率いて李密についた。李密は喜んで、「汝・潁に奇士が多いと世にいうが、間違いではない」と言った。李勣とともに黎陽を守らせた。李密が敗れると、李勣は孝恪を唐の朝廷に派遣し、孝恪は陽翟郡公に封ぜられ、宋州刺史に任じられた。詔により李勣とともに武牢以東の経略にあたり、唐の州県を定めた。
竇建徳が王世充の救援に現れると、孝恪は秦王李世民に面会し、両面作戦の実行を勧めた。竇建徳と王世充が平定されると、洛陽宮で大宴会が開かれ、李世民は「孝恪の策が賊を捕らえたので、功績は諸君らの右にある」と、諸将に語った。孝恪は上柱国となり、貝州刺史・趙州刺史・江州刺史・涇州刺史を歴任して、能力を示した。左驍衛将軍に転じ、金紫光禄大夫の位を加えられた。
642年、涼州都督に任ぜられ、安西都護・西州刺史に転じた。高昌の旧都の地を治め、罪人と鎮兵が雑居して統治の難しい地であったが、孝恪は誠実な内政をおこなって民心をえた。焉耆が唐に叛いて欲谷設可汗に従わんとしたので、孝恪は西州道行軍総管に任ぜられ、歩騎3000を率いて銀山道に出て夜襲を仕掛け、焉耆王龍突騎支を捕らえた。
崑丘道副大総管に任ぜられて、亀茲を討ち、その国都を落とした。自らは亀茲の国都に残り、軍を分遣して亀茲の大臣の那利を追わせた。亀茲の残党が平定されないうちに、孝恪は陣営の外に出て油断していたところ、那利に襲撃され、また城内の亀茲人も呼応して混戦となった。孝恪は奮戦したが流れ矢に当たって死去し、子の郭待詔もまた戦没した。太宗は郭孝恪の敗戦にいたった経緯を知って、その官位を剥奪した。高宗が即位すると、生前にさかのぼって官爵を返還され、待詔・游撃将軍の位を追贈された。
次男の郭待封は、高宗のときに左豹韜衛将軍に上った。咸亨初年、薛仁貴の下で副将として吐蕃と戦い、大非川で敗れて、死一等を減じられて民に落とされた。
末子の郭待聘は、長安年間に宋州刺史となった。
評価
李世民:貴卿は焉耆を攻略し、その偽王を捕虜とする功績を立て、威厳を天下に示し、朕の委任に深く応えた。ただし焉耆は極めて遠い地であり、天山の険に守られ、遠隔と地勢を頼みとして叛逆を企てたものである。貴卿は名声高く地位も重く、報国の情も厚く、はるかに砂漠の戦場に赴き、自ら進んで罪を討った。その堅固な城壁を攻め落とすのに、一日もかからず、再び残党を一掃して、逃げ延びる敵もいなくなった。遠征の苦労を思えば、さぞかし艱難辛苦があったであろう。険阻を越えて功績を成し遂げたことは、誠に賞賛に値する。[1]
劉昫:郭孝恪は機知に富み果断で、混乱期において才能を発揮し、功績を立て献策するなど、一世を風靡する才能を持っていた。しかし、奢侈を常とし、完璧とは言えず、軍規を乱して敗れたことは、やはり疑問の残る点であろう。[2]
人物・逸話
貞観七年、太宗は郭孝恪を西州道行軍総管に任じ、歩兵と騎兵三千を率いて銀山道から出撃し、焉耆を討伐させた。夜間に城を急襲して攻略し、その王・龍突騎発を捕虜とした。太宗は侍臣に言った。「八月半ばに孝恪が出発し、二十日ほどで到着する計算だから、二十二日には焉耆を落としているはずだ。早馬で知らせが来るだろう。行程から計算すると、今日は吉報があるはずだ。」言葉が終わらないうちに早馬が到着し、孝恪がすでに焉耆を攻略したと報告した。太宗は喜んだ。その後、亀茲征討の際には、孝恪を昆山道副大総管とし、その都城を攻略した後、孝恪を守備として残し、残りの軍は別々に進軍した。この地域はまだ平定されていなかったが、孝恪は城外に陣を張った。ある亀茲人が孝恪に警告した。「那利は我が国の宰相で、民心がもともと彼に帰しており、今や国外に逃亡しているが、きっと反乱を企てるでしょう。城内の者たちも異心を抱いている者が少なくありません。どうか備えをなさるよう。」孝恪はこれを警戒しようとしなかった。果たして那利らは万余りの兵を率い、ひそかに城内の降伏した胡人と通じて、内応の手はずを整えた。孝恪は警戒を怠り、賊が城内に乱入して騒ぎ立てるまで気づかず、胡人の放った矢に当たって戦死した。[3]
孝恪はぜいたくを好む性格で、家の使用人や妾、器物や骨董に至るまで、ことごとく華美を極めさせ、軍中にあっても寝台や調度品に金玉を飾り付けた。金の寝台や豪華な帳幕まで整え、行軍大総管の阿史那社爾に贈ろうとしたが、社爾は一切受け取らなかった。太宗はこのことを聞き、「二人の将軍の優劣はなんと対照的なことか。郭孝恪が今や敵に討たれたのは、まさに自ら招いた災いと言えよう。」と述べた。[4]