郭立志
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初期の活動
清末の思想家・呉汝綸の門人。北京政府では軍需部門の官僚として出仕したと見られる。1922年(民国11年)12月に陸軍三等軍需正、翌1923年(民国12年)3月に陸軍二等軍需正の位をそれぞれ授与された。1926年(民国15年)2月、督弁甘粛軍務善後事宜公署軍需課課長に任命され[注 2]、同年4月には陸軍一等軍需正兼軍需監の位に昇進している[3]。甘粛など中国北西部の省は当時において国民軍の勢力圏下にあり、郭も同様に国民軍に関与していたと考えられる。
1928年(民国17年)9月、孫連仲が新設された青海省で省政府主席に就任した際に、郭立志は同省政府委員兼財政庁庁長として起用され、翌1929年(民国18年)5月までつとめた[3]。1936年(民国25年)8月、国民政府財政部令により冀晋察綏区統税局副局長代理に派出されている[4]。
親日政権での活動
華北での親日政権樹立が目前に迫った1937年(民国26年)12月6日、京津地方治安維持会聯合会は国民政府の旧徴税機関を接収し、新たな徴税機関として国税総処を創設した。この総処処長に郭立志が任命され、旧徴税機関の機能停止・廃止と新機関の活動開始を宣言している[5]。
中華民国臨時政府創立後の翌1938年(民国27年)1月17日、国税総処は統税公署に改称(改組)された。郭立志は統税公署副署長に任命され、署長代行も兼務した模様である[6]。5月、郭は署長として正式に任命され[7]、9月には新設された財政部(総長:汪時璟)で税務局局長代行を暫時兼務した[8]。1939年(民国28年)3月17日、郭は財政部参事へと異動したが[9]、4月9日に津海関監督・程錫庚が暗殺されたため、郭が急遽その後任監督に就任している[10]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。郭立志は津海関監督に留任(重任)し、1943年(民国32年)11月まで4年半以上の在任となった。同月、華北税務委員会(委員長:王克敏)委員兼第三処処長に異動している[11]。1945年(民国34年)2月末には、財務委員会(委員長:汪時璟)で委員兼第二処処長に任命された[12]。
以後、郭立志の動向・行方は不詳である。なお、郭が漢奸として摘発されたとの情報はない。