清末の挙人[3]。英国へ留学し、ロンドン大学で政治経済学博士号を取得した[1]。
1921年(民国10年)、国際連盟中国代表附秘書となる。翌1922年(民国11年)7月、財政部秘書に就任し、以後、北京政府ではこの地位に在ることが多かった[4]。同年以降は全国財政研究委員会専門委員、露中会議専門委員、関税特別会議専門委員などを歴任(兼任)している。1926年(民国15年)、外交部名誉顧問となり特命全権公使銜を授与され、翌1927年(民国16年)には関税塩税借款監理官となった。この他にも、財政部駐欧代表などをつとめたとされる[1]。
蔣介石国民政府にも程錫庚は出仕し、1929年(民国18年)から1932年(民国21年)まで財政部塩務署編訳処処長をつとめた。1934年(民国23年)に外交部駐平特派員、1936年(民国25年)に外交部条約委員会委員として、それぞれ任命されている[1]。
王克敏が中華民国臨時政府を北京で創立すると、程錫庚は直ちにこれに参加した。1938年(民国27年)1月1日、行政委員会秘書に任命される[5]。同年3月、中国聯合準備銀行(聯銀。総裁:汪時璟)の創設に際しては、天津分行経理(支店長)に就任(兼務)した[6]。
翌1939年(民国28年)3月24日、津海関監督・温世珍が天津特別市市長代行となったため、その後任として程錫庚が津海関監督に就任した[7][注 2]。津海関監督は天津租界行政に深く関わり、各国との交渉も担うため、臨時政府内では重要度が高い職位であった。
しかし監督就任から一月も経たない4月9日、英国租界内の劇場で観劇中のところを、程錫庚は複数名の中国国民党特務関係者に銃撃、殺害された[2][注 3]。享年47。この事件の犯人の捜査や引渡しをめぐっては日英両国間で外交問題となり、一時は日本軍による英国租界封鎖にまで至った(天津事件)。