郭行余
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元和年間、進士に及第した。河陽三城懐州節度使の烏重胤の下で掌書記をつとめた。烏重胤がその先祖を葬るのに、行余に命じて墓誌を作らせようとしたが、行余はその文章を作らなかったため、烏重胤に解任された。のちに京兆少尹に累進した。あるとき京兆尹の劉栖楚の車をあえて道で避けず、故事を引いて言いくるめた[1][2]。
大和元年(826年)、行余は楚州刺史として出向した。大和5年(831年)、汝州刺史に転じ、御史中丞を兼ねた。大和9年(835年)9月、入朝して大理寺卿となった。かつて李訓が洛陽にいたとき、行余は李訓と仲良くなり、食物を贈りあった。このため大理寺卿に任用されたわけであった。11月、李訓がひそかに宦官誅殺を計画すると、行余は兵を集めるべく、邠寧節度使に任じられた[1][2]。赴任しないうちに、豪俠や左金吾衛の従者を集めた。11月21日(12月14日)、李訓らとともに甘露の変を起こして失敗した[3][4]。11月24日(12月17日)、行余は一族とともに処刑された[5][6]。