郭金海
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若くして晋(後の後唐)の昭義軍節度使の李嗣昭に近侍し、その征戦に従った。金海は酒を好み、不法のことが多かった。邢州と洺州の境に入って強盗を行い、李嗣昭がそのことを知ったが、その武勇を惜しんで、かれを受け入れた。昭義軍親騎指揮使に累進した。後唐の同光2年(924年)、昭義軍馬軍都指揮使に転じた。天成元年(926年)、入朝して奉聖軍指揮使となった。長興3年(932年)、護聖軍都虞候に任じられた[1]。
後晋の天福2年(937年)、金海は興唐府で范延光の乱の討伐に従軍し、功により護聖軍都指揮使に転じ、黄州刺史を遥領した。天福6年(941年)、石敬瑭が広晋府に赴くと、金海は部下の兵を率いて東都巡検をつとめた。11月、安従進が反乱を起こすと、金海は襄州道行営先鋒都指揮使となり、李建崇らとともに1万人あまりを率いて湖陽県に進軍した。金海は1部隊を率いて突撃し、安従進を破った。勲功により検校太保・商州刺史となった。まもなく慶州刺史に転じた。任期を満了して開封府に帰る途中、病のため死去した。享年は61[2]。