酒井鎬次

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死没 (1973-03-02) 1973年3月2日(87歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1905年 - 1944年
酒井 鎬次
生誕 1885年11月4日
日本の旗 日本 愛知県
死没 (1973-03-02) 1973年3月2日(87歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1905年 - 1944年
最終階級 陸軍中将
指揮 第24旅団
独立混成第1旅団
留守第7師団
第109師団
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酒井 鎬次(さかい こうじ、明治18年(1885年11月4日 - 昭和48年(1973年3月2日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。鎬次を「たかつぐ」と読む文献もあり、注意を要する。

愛知県出身。農業・酒井鐘之助の二男として生れる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、明治38年(1905年)11月、陸軍士官学校(第18期、2番/920名)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。大正元年(1912年)11月、陸軍大学校(第24期)を優等で卒業した。

陸軍省軍務局付勤務(軍事課)、フランス駐在、参謀本部員、参謀本部付(平和条約実施委員・欧州駐在)、陸大教官、近衛歩兵第2連隊付、参謀本部員、参謀本部付(国際連盟陸軍代表随員)、歩兵第22連隊長、陸大教官などを歴任し、昭和9年(1934年)3月、陸軍少将に進級。

陸大研究部主事、陸士幹事、歩兵第24旅団長を経て、昭和12年(1937年)3月、関東軍独立混成第1旅団長に任ぜられる。この旅団は戦車2個大隊、自動車歩兵連隊、野砲兵、工兵等からなり、車輌744両を擁する日本初の機械化兵団であった。同年8月、陸軍中将に進むが、同月から開始されたチャハル作戦において、察哈爾兵団に戦車隊が分派されて集中的な運用が出来ず、小部隊が無理な突撃を強いられて損害を大きくする状況が続き、関東軍参謀長東條英機兵団長と作戦のあり方をめぐり衝突する。以後、東條との間に確執が生じ、結局は満州に帰還後、旅団は解体されることとなった。

その後、留守第7師団長、第109師団長、参謀本部付を経て、昭和15年(1940年)1月、予備役に編入された。昭和18年(1943年)11月に召集を受けて参謀本部付となり、戦争指導についての歴史的検討に携わるが、近衛文麿を中心とする東條内閣倒閣工作への関与が問題視され、同19年(1944年)7月、召集解除となった。彼自身は皇道派ではなかったが、柳川平助と親しく、東條に代わり皇道派将官の起用を画策する近衛に陸軍内部の情報を提供し、その相談相手となっていた。

戦争理論、戦史研究の権威として知られ、立命館大学で国防学を講義している。彼の翻訳した「戦ふクレマンソー内閣」は第一次大戦でのフランス宰相クレマンソーの果断な戦争指導を描いたものだが、戦局を傾けた東條内閣へのアンチテーゼとして要路に配布されていた。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

後年、日本陸軍における機甲戦(機械化部隊による戦闘)の先駆者として非常に重要な役割を果たしたと評価された。

特に、1930年代後半の日本軍における「近代化」と「機械化」の象徴的な存在として彼の名前を挙げるものは少なくない。

機甲戦の先達としての主な実績

  • 日本初の機械化兵団を指揮: 1936年に創設された、日本陸軍初の本格的な機械化部隊である独立混成第1旅団の旅団長に就任。この部隊は戦車、機械化歩兵、砲兵などを統合した「諸兵科連合」の実験的な性格が強く、後の機甲部隊運用の基礎となった。
  • 実戦での機甲運用(チャハル作戦): 1937年のチャハル作戦(察哈爾作戦)において、独立混成第1旅団を率いて大規模な電撃作戦を展開した。未整備な地形で戦車部隊を長距離進撃させるなど、当時の日本軍としては画期的な機動戦を実践した。
  • 理論と研究: 彼は単なる指揮官ではなく、フランス駐在経験などを通じて最新の軍事理論を吸収した知性派でもあり、石原莞爾とも親交があった。(石原莞爾は酒井鎬次を「自分に匹敵する、あるいは自分以上の天才」として高く評価しており、二人は思想的にも非常に近い関係にあった。) 第一次世界大戦後の欧州で生まれた「戦車を中心とした機動戦」の理論を日本に導入し、それを日本の国力や戦略に合わせてどう適用すべきかを深く研究するなど、兵器の発展に適応したドクトリンの確立を模索していた。

評価と背景

当時の日本陸軍内では、依然として歩兵を主力とする伝統的な考えが根強く、酒井が推進した機械化の試みは予算や資源の制約から十分に継続されなかった。しかし、彼が率いた独立混成第1旅団の経験は、その後の戦車師団の創設や、ノモンハン事件後の機甲部隊立て直しに大きな教訓を残し、日本陸軍という組織が持ちえた可能性を示した。

著書

脚注

参考文献

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