酒本房太郎

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生誕 (1886-12-27) 1886年12月27日(明治19年)
奈良県吉野郡小川村
死没 (1978-03-23) 1978年3月23日(91歳没)
(昭和53年)
東京都
死因 老衰
墓地 不明
さかもと ふさたろう
酒本 房太郎
生誕 (1886-12-27) 1886年12月27日(明治19年)
奈良県吉野郡小川村
死没 (1978-03-23) 1978年3月23日(91歳没)
(昭和53年)
東京都
死因 老衰
墓地 不明
国籍 日本の旗 日本
職業 柔術師範柔道師範
柔道整復師
流派 天神真楊流柔術
講道館柔道
宝生流
活動拠点 育道館
身長 166㎝[1]
体重 68㎏
肩書き 大日本士道会幹事長
講道館柔道審議会審議員
新宿区柔道会初代会長
新宿区柔道会常任相談役
新宿区柔道会理事(審議部長)
東京聯合会青年団武道委員・評議員
山吹町青年団長
配偶者 酒本園江
子供 酒本正子
酒本柳太郎
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酒本 房太郎(さかもと ふさたろう、1886年明治19年〉12月27日 - 1978年昭和53年〉3月23日)は、日本の柔道家である。講道館柔道九段、天神真楊流免許皆伝、大日本武徳会柔道教士。

1886年12月27日(明治19年)奈良県吉野郡小川村(現東吉野村)に酒本柳太郎の五男として生まれた[2]。酒本家は藤原氏の末裔であり、奈良県吉野郡屈指の名門であった。

1905年(明治38年)18歳の時に上京した。中学に入って学んだ後、1911年(明治44年)に中学卒業認定試験に合格し早稲田大学政治経済学科に入学したが学資が続かず二年学んで退学した[3][1]

1908年(明治41年)5月に浅草で真蔭流柔術を教えていた渥美為亮の紹介で八木寅次郎の道場「体育館」に入門し天神真楊流柔術と接骨術を住み込みで修行した。酒本房太郎は昼間は接骨の治療で夜間は天神真楊流の稽古を行った。八木寅次郎の「体育館」の門人は100名以上で稽古は十分にできた。また昼間の接骨は患者が日々40~50名は来ており多忙を極めた[4]

講道館には1908年(明治41年)12月20日に入門した。柔道は創始者の嘉納治五郎、四天王の横山作次郎山下義韶戸張瀧三郎永岡秀一磯貝一宗像逸郎飯塚国三郎田畑昇太郎、半田義麿、村上邦夫、本田存、宮川一貫徳三宝佐村嘉一郎三船久蔵などから指導を受けた[5]

講道館での昇段歴
段位 年月日
入門 1908年12月20日
(明治41年)
初段 1911年12月10日
(明治44年)
2段 1914年9月28日
(大正3年)
3段 1918年1月13日
(大正7年)
4段 1924年1月13日
(大正13年)
5段 1932年1月10日
(昭和7年)
6段 1939年6月15日
(昭和14年)
7段 1945年5月4日
(昭和20年)
8段 1956年6月8日
(昭和31年)
9段 1972年11月25日
(昭和47年)

1914年(大正3年)から1924年(大正13年)まで曹洞宗大学(現在の駒澤大学)と曹洞宗第一中学(現在の世田谷学園中学校・高等学校)の柔道講師を務めた。

1914年(大正3年)天神真楊流の免許を得た[6]

1915年(大正4年)4月4日に独立して、東京市牛込区山吹町146番地に道場「育道館」を創設し、多数の門人を育成する傍ら接骨治療を行った[注釈 1]

酒本房太郎は接骨の技術に秀でていただけでなく、極めて懇切であったため患者は遠方より多く来ていた[3]

東京都柔道整復師会の幹事、大日本士道会幹事、東京聯合会青年団武道委員・評議員、山吹町青年団長などを務めた。

1925年(大正14年)5月に行われた大日本武徳会の武徳祭で総裁の久邇宮邦彦王の御前で八木寅次郎と天神真楊流の形を演武して賞詞を頂き精錬証を授かった。これが酒本房太郎の自慢の種であった[1]

1929年(昭和4年)新宿区水道町に育道館を移転した[6]

1932年(昭和7年)て大日本武徳会柔道の精錬証が錬士号に改められた。1936年(昭和11年)6月20日には大日本武徳会柔道の教士号を受けた[注釈 2]

1939年(昭和14年)5月に講道館二代目館長の南郷次郎から講道館女子指導員を命じられて1958年(昭和33年)まで務めた[注釈 3]

戦時中に女子部で鹿島神宮香取神宮に戦勝祈願に参拝した時、酒本房太郎は宝生流の謡を観世流の柳という人と共に奉納した[7]

1942年(昭和17年)3月に講道館高等柔道教員育成所を卒業した[6]

1943年(昭和18年)奈良県で講道館二代目館長の南郷次郎と酒本房太郎と乗富政子の三人による女子護身法の講習会が開かれた。この時、酒本房太郎の母が93歳で亡くなったが講習会で終わるまでそのことを一言も言わなかったという[7]

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲焼夷弾を受けて両膝から下を切断しなかればならないほどの重傷を負った。幸いにも切断は免れたが両膝とも完全に伸ばすことも曲げることこともできなくなり、手指も曲がったままであったという。その後、乱取や形をよく行うまでに不自由を克服した[7]

天神真楊流と関係が深い石黒流柔術三代目宗家の鈴木幸太郎は酒本房太郎と交流があり、弟子で後に石黒流四代目宗家を継いだ田村弘二ともに銚子市から出稽古に来ていた。石黒流の書籍には、酒本房太郎は小柄な人で焼夷弾で足を引きずっていたが、それでも強い達人という印象が見て取れたと記されている[8]

1951年(昭和26年)1月に新宿柔道会初代会長となった[6]

1952年(昭和27年)講道館護身術の制定委員に選ばれた[6]

1958年(昭和33年)佐藤金兵衛がに上京した際、道場がなくて稽古するのに困っていたので道場「育道館」を一時貸していたことがあるという[9]

1966年(昭和41年)4月の柔道における精神面の指導を強調し幾多の人材を養成し柔道普及向上に尽力したことが認められて勲五等双光旭日章を受けた[10]

1966年(昭和41年)4月20日の『柔道新聞』に柔道修行の歌として自作の俳句を掲載した[11]

稽古では心も軽く身も軽く技は素早く引き手鋭く
引けば押せ押せば廻りつ軽妙に変化自在に得意技出せ
修行者は五教の技を体得し変化自在に効果あらわせ
寝技にて抑えつ絞めつ逆もとれこれを凌いで勝つは柔道
柔道は心さわやか身も軽く意気は壮んに技はすばやく

1967年(昭和42年)8月1日、都市道路拡張計画により東京都新宿区水道町36に道場「育道館」を移設した。道場は28畳で盛大な道場開き「酒本道場新築落成記念柔道大会」が参議院議員迫水久常安井謙をはじめ多数の門人の後援で行われた。大会には地元の前田道場・牛込・四谷・戸塚各警察署道場・新宿柔道体育館・黒須春次の義勇館・酒本門人で八王子に住んでいた小山實の道場などが参加した。酒本のあいさつから始まり、少年部の試合、投の形、久保田敏弘と吉沢清による天神真楊流初段居捕と投捨の形、青年部の試合、三人掛が行われた。祝辞は黒須春次、永瀬論喜、田中壮明、新宿柔道整復師会支部長で神道六合流二代目の永井慶雄、新宿区柔道会理事長の谷貞三から述べられた[12]

1972年(昭和47年)11月25日に行われた講道館創立90年記念の盛大な式典で講道館柔道九段となった。同時に九段に昇段した者は、丸山三造黒須春次菊池揚二入江松次である[13]

1978年昭和53年)3月23日に老衰で亡くなった[7]

酒本房太郎が伝えた天神真楊流は、吉沢清、油谷忠、久保田敏弘、坂本忠彦など柔道高段者の弟子が後を継いで現代も活動しており、日本古武道協会日本古武道振興会に加盟して各地で演武されている。

酒本房太郎に関する話

脚注

参考文献

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