山下義韶
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元治2年(1865年)2月16日(旧暦)、相模国小田原藩(後の神奈川県小田原市)の武芸の指南役の家系に生まれる。1884年(明治17年)8月14日、講道館に入門。横山作次郎、西郷四郎、富田常次郎と共に講道館四天王とされた。1887年(明治20年)までに江田島の海軍兵学校柔道科の教師となった[5]。1889年(明治22年)、警視庁柔術世話掛、慶應義塾體育會柔道部師範となる。
1902年(明治35年)、アメリカシアトルに渡米[要出典]。一方、書籍『講道館今昔物語』によると、渡米を誘われたのは1903年(明治36年)だとしている[5]。演武や講話を通じて柔道の普及に尽力。1904年(明治37年)2月、ニューヨークで「地獄の狼」を名乗るボクサー・ライヴェルと試合をした。山下はストレートパンチを浴び、顔面は紫色に腫れあがったが、腰車、一本背負投で投げて勝利した。これがセオドア・ルーズベルト大統領の耳に入り、子弟に柔道を教えることになる[6]。そして、1905年(明治38年)3月29日、ワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kg)と試合をした。抑え込みで勝利した[要出典]。一方、書籍『講道館今昔物語』によると、左跳腰から左肘関節を折り勝利した[6]。これを見ていたルーズベルトに認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となる。
1907年(明治40年)、契約期間満了に伴い帰国し、その後は講道館の指南役を務めた。1924年(大正13年)、警視庁捕手ノ形制定に尽力。
1934年(昭和9年)、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会において講道館投の形を演武した。
1935年(昭和10年)10月24日、嘉納治五郎より「終始一貫斯道ノ普及ニ務メソノ成果国内ニ遍ク遠ク海外ニモ及ビソノ功績極メテ顕著ナリ」とされ、講道館史上初となる十段を贈られる。
1935年(昭和10年)10月26日、死去。
墓所は戦災の影響などで資料が喪失しており、東京・新宿の常圓寺で昭和10年に葬儀が執り行われたことが判っている以外、所在地に関する詳細は一切不明とあるが、青山霊園にある[7]。
