釈迦牟尼仏氏
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吉田東伍の『大日本地名辞書』には「相模国足柄上郡上秦野村大字三廻部」とあり、神奈川県秦野市には現在も「三廻部(みくるべ)」という地名が残っているため、これが名字の由来であると考えられる[2]。
太田亮の『日本姓氏大辞典』によると、釈迦牟尼仏氏は「にくるべ」あるいは「みくるべ」と訓まれており、釈迦牟尼仏の他に
- 三久留部
- 三廻部
- 仁来辺
- 釈迦如来
- 釈迦尼仏
- 釈迦牟仏
の当て字があるとしている。また、「にくるべ」以外の訓み方として
- にぐらめ
- にぐろうべ
- にくろべ
- にぐろめ
を挙げている。荻生徂徠の『南留別志』では「如来部(にょくるべ)」が訛ったものとしている[3]。
本来「三廻部」であった地名や名字が「釈迦牟尼仏」と記されるようになった理由について、『新篇相模国風土記』には「昔三廻部は釈迦堂あり、釈迦牟尼仏と書してみくるべと訓する故、村名となれりとぞ」とある[4]。
歴史
『曽我井伝記』によると、治承3年(1179年)8月の石橋山の戦いでは、俣野景久の従者である釈迦牟尼仏太郎時盛・釈迦牟尼仏次郎晴時が戦闘での敗北の末に諸国を流浪して丹波国の華浪山(鬼ヶ城)を本拠地とするようになったという。しかし、丹波国に定住した釈迦牟尼仏一族は周囲の百姓から金品や穀物を略奪するようになり、丹波国綾部の「領主」であった平宗盛がこれを討ち滅ぼしたと伝わる[5]。
鎌倉の浄光明寺に伝わる延徳元年(1491年)付の文書には、相模国三久留部の地頭に「三久留部兵庫助」と見える[6]。太田亮の『姓氏家系大辞典』などによると、丹波国 矢田荘の矢田城主にも釈迦牟尼仏氏がおり、これは相模国の釈迦牟尼仏氏の庶流であると考えられる。天正3年(1575年)3月には、織田信長家臣の明智光秀・細川藤孝が丹波国平定のために派遣され、釈迦牟尼仏氏は鬼ヶ城と高見城を拠点として抵抗したものの、同6年(1578年)10月23日には落城し、織田氏に服従するようになった。あるいは、『蓑輪軍記』によると、落人となった釈迦牟尼仏靭負陶賢は帰農し「岡井久助」と名乗り下天津に住むようになった[7]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 丹波基二『姓氏の歴史と謎 (叢書・ことばの世界)』(南雲堂、1987年)
- ↑ 丹波基二『姓氏の歴史と謎 (叢書・ことばの世界)』(南雲堂、1987年)
- ↑ 丹波基二『姓氏の歴史と謎 (叢書・ことばの世界)』(南雲堂、1987年)
- ↑ 丹波基二『姓氏の歴史と謎 (叢書・ことばの世界)』(南雲堂、1987年)
- ↑ ふる里の地誌風土記編纂委員会 編『下天津風土記 第1巻』(岡井主税、1991年)
- ↑ 丹波基二『姓氏の歴史と謎 (叢書・ことばの世界)』(南雲堂、1987年)
- ↑ ふる里の地誌風土記編纂委員会 編『下天津風土記 第1巻』(岡井主税、1991年)
- ↑ 丹波基二『姓氏の歴史と謎 (叢書・ことばの世界)』(南雲堂、1987年)
- ↑ 矢島玄亮「古碑に学ぶ」東北大学附属図書館 編『図書館学研究報告 (19)』(東北大学附属図書館、1986年)