野原文四郎
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| 野原文四郎 のはら ぶんしろう | |
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『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』より | |
| 生年月日 | 1871年12月3日 |
| 出生地 |
(現・中川村) |
| 没年月日 | 1951年 |
| 前職 | 実業家 |
| 現職 | 実業家 |
初代 飯田市長 | |
| 在任期間 | 1937年7月2日 - 1939年4月5日 |
飯田町長 | |
| 在任期間 | 1909年5月 - 1917年7月 |
下伊那郡会議員 | |
| 在任期間 | 1907年10月 - 1911年10月 |
飯田町会議員 | |
| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 | 1901年4月 - 1911年4月 |
野原 文四郎(のはら ぶんしろう、1871年12月3日〈明治4年10月21日[1][2]〉- 1951年〈昭和26年[3]〉)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。長野県飯田市長。旧姓・高坂、幼名・胤雄[3]。
長野県上伊那郡大草村[3](現中川村)で、高坂謙輔の二男として生まれた[2][3]。飯田で酒造業と綿屋を営む旧家の野原文四郎家の養子となり、1896年(明治29年)に家督を相続し文四郎を襲名した[2][3]。飯田土地建物社長、飯田銀行(現・八十二長野銀行[注釈 1])取締役、三信鉄道取締役などを歴任した[3]。
1901年(明治34年)4月から飯田町会議員を2期務め、学校新築の経費調査委員や野底川の入会権に関する委員などを務めた[1][3]。また、1907年(明治40年)10月からは下伊那郡会議員にもなった[1]。1909年(明治42年)5月、飯田町長となった[1]。1911年(明治44年)4月に町会議員を、同年10月に郡会議員をそれぞれ退任した[1]。1917年(大正6年)7月に町長を退任した[1]。
1937年(昭和12年)4月、飯田市が発足し市長代理を飯田町長・小西吉太郎が務めた[2]。飯田市会の推挙により同年7月2日、初代市長に就任[2][3]。就任後間もなく日中戦争が勃発し、飯田市警防団や飯田市国防婦人会が結成されるなどの戦時体制下で、地方自治は制約を受け、政府の直接指揮下に置かれた[2][3]。1939年(昭和14年)4月5日に市長を退任した[2][3]。