野口三四郎

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野口 三四郎(のぐち さんしろう、1901年明治34年〉- 1937年昭和12年〉2月22日)は日本の人形作家静岡県三島市(旧三島町)大中島地区出身。張り子製を中心とする人形「三四呂人形」(みよろにんぎょう)を製作した早逝の作家として知られる[1]。作品の一部は三島市が指定する有形文化財に指定されている[2]

1901年(明治34年)に当時の静岡県田方郡三島町大中島の質屋の家に生まれる[3]。名前の由来は生年の「明治年」による[3]。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)に入学後、美術部に入り絵画の技術を身につける[1]

卒業後は写真技術を身につけ、1928年(昭和3年)頃に東京三越百貨店に写真技師として就職。1929年(昭和4年)に朝鮮博覧会参加のためソウル(当時は京城)に派遣される。その間に数多くのスケッチを描き、芸術分野への取り組みを本格化させたと考えられており、帰国後に三越を退職、彫刻家の元で製作を手伝いながら、自らも張り子による人形製作を開始する。自身の名にちなみ、作品を「三四呂人形」(みよろにんぎょう)と称した[1]。昭和時代初期の人形芸術運動(人形を芸術の1つとして認めさせる運動)の機運に乗り、1934年(昭和9年)には鹿児島寿蔵野口光彦堀柳女らの人形作家グループ「甲戌会」結成に参加した。子供の姿を対象とした人形を数多く製作するが、この頃、私生活では妻と長女を病気で失う[3]

1936年(昭和11年)に開催された第1回綜合人形芸術展に、地元・三島の源兵衛川に遊ぶ子供(作者の甥たち)をモデルとした作品「水辺興談」を出品し、有坂與太郎の高評価を受け最高賞を受賞した[1][4]。なお、同年は、人形を評価対象としていなかった帝展でも初めて人形の出品が認められた年でもあり、甲戌会の野口光彦が初入選を果たしている[5]。しかし野口は受賞直後に結核に罹患し、幼い長男を連れて失意の内に三島に帰郷。療養のため実家に身を寄せるが1937年(昭和12年)2月22日に死去した[1]

三四呂人形は、野口の死後もしばらく三島市内の土産品として各地で販売されていたというが[6]、現存するものはほとんどが野口の親族や知人の所有するものとなっている。現在は三島市郷土資料館(三島市立公園楽寿園内所在)が遺作の収集にあたっている。

なお、代表作「水辺興談」をふくむ一部の作品は三島市により有形文化財の指定を受けている[2]

2025年(令和7年)3月1日から5月11日にかけて、三島市郷土資料館は野口の生涯と三四呂人形を本格的にテーマとした企画展「野口三四郎の芸術世界」を開催した[1]

脚注

参考資料

外部リンク

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