野平省三
From Wikipedia, the free encyclopedia
1900年、千葉県印旛郡に生まれる。中央競馬ピーアール・センターが刊行した『日本の騎手』によれば、実業補習学校を経て1925年1月に下総御料牧場に入り、種牡馬チャペルブラムプトンの交配管理を担当したとされているが[2]、次男・祐二の著書『馬の背で口笛吹いて』によれば、ずっと早く下総御料で育成に従事しており、こちらでは「20歳か、22、3歳の頃」に下総御料牧場から経験のある省三が抜擢され、当時の場長と共に北海道根室の牧場に移り、後に下総御料に戻り、『日本の騎手』の記述にある大正末期にはシンボリ牧場を手伝っていたとされている[3]。
『日本の騎手』によれば、牧夫から騎手へ転じるきっかけとなったのは、自身が育成調教を担当していた63ブラマンテー(競走名セイコウ)であり、新馬戦で同馬が勝利するところを目の当たりにして騎手に憧れ、1926年に秋山辰治厩舎に入門、翌1927年3月に中山競馬場で騎手免許を取得した[2]。騎手としては通算712戦89勝を挙げ、1940年ウアルドマインによる横浜農林省賞典四歳呼馬制覇などがある。同馬は調教師としての管理馬でもあった。
戦後は調教師として、かつて手伝っていたシンボリ牧場とも提携しながら活動し、重賞3勝を挙げたスイートワン、同4勝のスイートフラッグ、二度の年度代表馬に選出されたスピードシンボリなどを管理、また非シンボリ牧場出身馬も、メイジアスターとハーバーゲイムが1968年、1969年と最優秀4歳牝馬を連続受賞した。
1973年頃より体調を崩し、1974年8月7日、脳血栓移行肺炎で死去[4]。これに伴って管理馬は長男・富久などの厩舎に移り、また祐二は省三の後を継ぐため[5]、翌年騎手を引退して調教師に転身した。その最後の騎乗馬カーネルシンボリは省三が管理していた馬であり、祐二は目黒記念優勝で引退を飾った。