野蒜海岸
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現在、野蒜と宮戸島はほとんど陸地で繋がっている状態で、両者の間には人工的に開削された潜ヶ浦水道があるのみである。しかし、現在の野蒜海岸がある場所は、かつて潜ヶ浦と呼ばれた海域だった[4]。
正保年間(1644年から1648年)の仙台領絵図では、宮戸島と対岸の野蒜が海により隔てられている様子が見て取れる[5][8]。江戸時代後期の1800年頃に測量を行った伊能忠敬の地図によれば、この頃、松島湾側の東名に半島状の地形が確認できるが、その東側、宮戸島の北側は海として描かれている[5][6]。明治時代の初めにこの地域で野蒜築港事業が行われたが、この頃は野蒜と宮戸島の間に十分な海域があり、大型船の泊地である外港はこの海域に計画された。しかし、鳴瀬川河口に内港が造られたのみで、外港の整備は未成に終わり、内港も放棄された[9][10][11]。
その後、明治、大正、昭和の地図を比較すると、半島東部の汀線が徐々に東側に移動している様子が確認できる[1][5][6]。この汀線の東進により、伊能忠敬の頃から比較して、東名の半島の面積は2倍近くに広がった[6]。汀線の東進距離はおおよそ1キロメートルである[12]。また、野蒜と宮戸島は繋がり、1934年(昭和9年)には野蒜から宮戸島まで道路が開通した[13]。しかし、水質が悪化した松島湾に対して潮流による水質交換を促す目的で、1960年代初め頃、宮戸島と野蒜海岸の間に潜ヶ浦水道が開削され、両者は切り離された[14]。
土砂の堆積の理由として、鳴瀬川や北上川(旧北上川)からの土砂の供給と、石巻湾における東から西へ向かう漂砂の卓越があると考えられている[1][14]。野蒜と宮戸島の間には不老山、鷺ノ巣岩、鰯山、丸山、松ヶ島などの小規模な岩山群があり、それらが漂砂を滞留させる基点となったとも考えられている[15]。海岸に漂着する土砂の量については、石巻湾に注ぐ河川の治水や沿川の治山との関連が指摘されている[1]。
海水浴場として

仙石線の前身に当たる宮城電気鉄道は1928年(昭和3年)に野蒜駅を開設した。当時、野蒜海岸では野蒜村(当時)が不老山海水浴場を運営していたが、宮城電気鉄道はこれの経営権を取得し、電鉄直営の海水浴場とした。宮城電気鉄道は海岸にテント、脱衣所、休憩所、食堂、入浴施設、ポンプで汲み上げた海水を満たした大プールを設置した。さらに、避暑地として著名な兵庫県神戸市の須磨海岸に倣って、野蒜駅の名称を東北須磨駅に改め、野蒜海岸を行楽地として売り込んだ[16]。
野蒜海水浴場の利用者数は、2010年(平成22年)のシーズンで4万8070人だった[7]。しかし、2011年(平成23年)に東日本大震災が発生してから、しばらく海水浴場の設置は見送られた。2022年(令和4年)、12年ぶりに海水浴場が設置されたが2720人の利用に留まり[17]、翌2023年(令和5年)の利用者数も4333人と、震災前に比べて低調だった。この状況を受けて、東松島市は2024年(令和6年)以降、野蒜海水浴場を設置していない[7]。それに替わり、海岸にビーチコートが整備されている[18]。
後背地
汀線の東進に伴い野蒜海岸の西側には後背湿地が形成され、その一部は昭和30年代頃まで塩田として利用されていた[15]。湿地のまま残存している部分もあり、これは洲崎湿地と呼ばれている。洲崎湿地は淡水と海水が混じり合う汽水域で、2011年(平成23年)の東日本大震災において大津波を被ったが、その後も野鳥や水生生物など多様な生物がここに生息している[15][19]。ただし、震災復興工事に関連して、湿地周辺で瓦礫や土砂が仮置きされ、盛土造成工事も行われた。その過程で、手入れされていない土砂や農地で外来植物(特定外来生物)が繁殖する問題が起きている[20]。一方で、湿地の環境を改善する取り組みも行われている[21]。
野蒜海岸の後背地には日本郵政の宿泊施設「かんぽの宿松島」があったが、東日本大震災の津波を受けて休館し、震災遺構の候補にも挙げられたが[22]、2016年(平成28年)に廃止された[23][24]。