金子正則
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生い立ち、法曹界へ
1907年(明治40年)3月29日、香川県丸亀市に生まれる[1]。香川県立丸亀中学校、第六高等学校を経て[1]、1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業、司法官試補となる。1931年(昭和6年)に大阪地方裁判所および大阪区裁判所の判事に就き(兼任、以下同)、翌1932年に旭川地方裁判所および旭川区裁判所の判事に転任。その後、1935年に札幌地方裁判所および札幌区裁判所、1936年(昭和11年)に長野地方裁判所および長野区裁判所、1937年(昭和12年)に東京地方裁判所および東京区裁判所の判事を歴任している。
戦後、1946年(昭和21年)に東京控訴院部長[1]となって翌日付で退職し、郷里の丸亀市で弁護士を開業した。翌1947年(昭和22年)に香川県副知事に就任[1]。
香川県知事へ
1950年(昭和25年)に香川県知事選挙に出馬し、当選[1]。6期24年にわたって知事を務めた[1]。
在任中は吉野川から香川用水を引き、香川医科大学(現・香川大学医学部)の開設を推進するなどした。県知事在職中、県の特産品として讃岐うどんのPRに率先して取り組んだことも知られている[2]。 1961年(昭和36年)6月15日に、昭和天皇が各県知事(12の県知事)から地方事情の奏上を受ける場を設けた際には、金子は「四国開発と塩田」と題して香川県の状況を説明している[3]。
1962年(昭和37年)の3選時は無投票で当選。翌1963年(昭和38年)5月に全国知事会の副会長に就任(1967年5月に退任)[4]。5選目の1966年(昭和41年)8月の知事選挙と県議会選挙では公職選挙法違反で県議や高松市議が複数逮捕された。同年12月に社会党などから不信任決議案を提出されたが否決となった。1967年(昭和42年)には「香川県の建築及び都市開発のデザイン・ポリシー」として第8回毎日芸術賞特別賞を建築関係者一同が受賞しており、その中心人物とされた[5]。7選を目指した1974年(昭和49年)の選挙で野党各党の推す前川忠夫に敗れて引退する。
知事引退後
1976年(昭和51年)に金子法律事務所を開業し、翌1977年(昭和52年)に勲一等瑞宝章を受章。1980年(昭和55年)に香川県名誉県民となる[1]。1996年(平成8年)10月21日、心不全のため89歳で死去。死没日付をもって正五位から従三位に進階した[6]。