金宗元
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1922年、慶尚北道慶山郡に生まれる。日本軍に志願入隊し、1940年、陸軍兵志願者訓練所に入所。始興の志願兵訓練所に助教として勤務[1]。ニューギニアやフィリピンで軍務に就いた[2]。ここでの戦闘は日本軍で餓死者が続出するほど過酷であったが、金宗元はこの時に人肉を食べたことを自慢していた[3]。終戦後は警察に入り、1946年に国立警察東大門署におり、1947年には張沢相の警備を8か月担い、後に陸軍に入隊した[2]。
1946年、ソウル東大門警察署交通課長。同年、南朝鮮国防警備隊に入隊。第1連隊の下士官であったが、1946年5月、警備士官学校第1期に入校。学歴が低いうえに性格が荒く成績も良くなく、行政要員のイ・ジヒョン少尉に不遜な態度で食って掛かったため最初の懲戒処分を受けた[1]。さらに家の仕事で何日も欠席するため出席日数さえ足りなくなった[1]。卒業間近に同じ日本軍志願兵出身の鄭鍾根や高根弘と一緒に芮琯壽を暴行する事件を起こした[1]。原因は芮琯壽が「志願兵出身者は実力が無い」と軽蔑する話をしたためだという[1]。成績が低く任官に問題があったが、教官の張昌国が内務班成績に満点を与え、辛うじて卒業できた[1]。
1946年6月、士官学校を卒業して将校に任官(軍番10150番)後、第1連隊A中隊小隊長[3]。警察の頃からすでに部下や逮捕者に激しく暴行するなど悪行で怨声が高まり、度々補職を解任されており、1947年9月25日から1948年6月20日まで罷免状態であった[3]。残忍で悪質な気質であったため、米軍顧問からも嫌われていたが、宋虎聲の配慮で軍に復帰することができた[3]。
1948年10月、麗水・順天事件では第5連隊第1大隊長として参加。アメリカの忠告に従わず、10月23日に麗水へ上陸作戦を決行するが金宗元の部隊を乗せた戦車揚陸艇が浜に衝突して激しく炎上したため撤退し、上陸できたのは、反乱が鎮圧されて数日後だった[4]。10月27日、装甲車と迫撃砲を前面に出して麗水市内に進入したが、この時の迫撃砲で友軍に少なくない被害を出した[3]。米軍顧問団は金宗元の作戦能力を水準以下と評価した[3]。その後、金宗元は日本刀で容疑者の首を切り落とし、疲れると拳銃や小銃で射撃試験をするなどの蛮行を働いた[5]。また路地で遭遇した青年を日本刀で切るなど腹いせのように人々を殺した[3]。
1949年11月、第23連隊長。共匪討伐の任務を担当し、多くの民間人を虐殺した。同年12月、一時的に釜山駐屯356部隊長となった後、第23連隊長に復帰。朝鮮戦争勃発直後には刑務所収監政治犯を1日に1500人ずつ処刑する計画を立て、これを直ちに実行した[6]。
1950年7月下旬の盈徳攻防戦では盈徳南側の要衝である181高地が奪取された時に小隊長を即決で処分し、兵士1人を銃殺刑に処した。これを見た顧問のエメリッチ中佐は更迭を具申し、7月30日に連隊長を解任された[7]。
1950年8月、李承晩大統領は大領に昇進させ、憲兵司令部副司令官兼慶尚南道地区兵事区司令官に任命した[3]。釜山メディアは金宗元に関する記事を常に1面に配置してくれたが、釜山に退避したソウルメディアは批判記事を書き、これに激怒した金宗元は連合新聞副局長と記者を重体になるほど暴行し、記者達の抗議で李承晩が謝罪する事態にまでなった[3]。
1950年9月23日、慶尚南道地区戒厳司令部北区司令官。1950年10月に平壌が占領されると、第2軍団戒厳民事部長兼軍政官[8]。1950年11月初旬、憲兵副司令官兼慶尚南道地区戒厳民事部長[9]。
1951年2月、慶尚南道地区兵事区司令官[10]。居昌事件では、事件を揉み消すため調査団を妨害した。この件で懲役3年の刑を受けた[6]。
1952年3月、李承晩は釜山にいた頃の金宗元から直接報告を受けることも多く、彼を惜しみ特別恩赦して警察幹部に採用した[3]。金宗元の釈放は軍内で反対が多く、特に李鍾賛参謀総長が強く反対していた。これに李承晩は直接声明を発表することにし、草案を設けた。草案には「金宗元は愛国忠正の凄い人物で、忠武公李舜臣と並ぶほどだ」とあり、これを聞いた李鍾賛はこれは普通の事ではないとして釈放に同意したという[3]。
智異山地区戦闘司令官、全北、慶南、慶北の警察局長を務めて治安局長となったが、警察に在籍中も問題を起こしていた。巡視途中で派出所長の階級章を剥がし顔見知りの巡警につけたり、部下職員の立ち合いの中、警察署長を暴行したりした[3]。慶南警察局長時代、参謀会議で「インフレで市民が大変だ」と聞くと「捜査課長!すぐにインフレを捕まえろ!」と荒唐な指示を出したこともあった[3]。
1953年7月、西南地区戦闘警察隊司令官。
1953年11月28日、慶尚南道警察局長。南部軍の指揮官である李鉉相の逮捕に乗り出す。
1954年8月28日、慶尚北道警察局長。
1955年2月16日、全羅南道警察局長。
1956年5月26日、治安局長。記者達に食言した事件、国会議員拉致事件などを起こした[6]。
1956年9月、張勉副大統領暗殺未遂事件が起こり、拘束された李徳信は金宗元治安局長が背後にいることを暴露したが、金宗元はこれを否定し、李承晩政権が強固な時代であったため事件は有耶無耶になった[3]。
4月革命後に庇護者であった李承晩が亡命したことから張勉襲撃事件の再調査が行われ、金宗元に不利な証言が出てきて、金宗元も襲撃事件を背後で指示した事実が明らかになって4年の刑を受けた[3]。西大門刑務所に服役するが、1961年12月に糖尿病のため釈放され、1963年12月に死亡。