金田氏
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三河金田氏
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国で再挙を図ると、上総介広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した[1]。
この上総介広常の弟で、上総国長柄郡金田郷(現在の千葉県長生郡長生村金田)に住んで、金田姓を名乗った金田頼次を以て金田氏の祖とする。金田頼次は同じ良文流の平氏の一族、三浦義明の娘婿でもあった。
しかし、兄の上総介広常が謀叛の疑いで暗殺されると、頼次も連座して千葉介常胤に預けられることになった。後に上総介広常の疑いが晴れてその一族は赦免されたが、頼次が蟄居中に病死したのでその子の金田康常が御家人として復帰した。
その後、頼次の後裔は千葉氏の一族として活動し、戦国時代初期の金田信吉の代には、上総国勝見城主に復帰し、その子金田正信まで勝見城主だった記録が残っている[2]。
勝見城は現在の千葉県長生郡睦沢町寺崎にあり長柄郡金田郷とも近く金田氏初期の居城であったが、宝治合戦に巻き込まれた金田成常(康常の子)の代に所領とともに失われた。
成常の子の金田胤泰は、叔父の鏑木胤定の養子となり、鏑木胤泰と称し鏑木城(千葉県旭市鏑木)の城主となった。
鏑木胤泰はその子の常泰を蕪木城(千葉県山武市松尾町蕪木)の城主として分家させ、鏑木氏に将来の金田氏復帰を託した。鏑木氏は千葉宗家の重臣として豊臣秀吉による小田原征伐まで続いた。
寛政重修諸家譜には鏑木姓のことを曖昧にしており、金田常信の代に岩井城主となったことと安房国の安西氏・里見氏と戦ったことしか記載されていない。
千葉大系図には文明年中(1469年~1487年) 常信が千葉宗家の命で、安西氏・里見氏と戦った功により旧領に戻り金田姓 に復することを千葉宗家から許されたと記されている。
その後、金田正興(弥三郎)は勝見城主の金田正信(左衛門大夫)の弟であったが、上総国の争乱で兄・城・所領をすべて失い、勝利した小弓公方の足利義明・真里谷城主真里谷信勝によって永正14年(1517年)頃に三河国幡豆郡一色村へ追放されたため松平清康に仕えることとなった。
その孫の金田正房は松平広忠に仕え、その嫡子であった竹千代(徳川家康)の側近に附属させられた。
大永年間(1521~1528年)、正房の子の金田祐勝も家康に仕えた。
祐勝の3男の金田正辰(惣八郎)は大坂の陣で功があり、下総国内に采地として500石を与えられ、後に上総国に200石を加増され、御先鉄砲頭となった。
芥見金田氏
寛永11年(1634年)祐勝の長男の金田正末は争論裁断の奉行人に不公平があったと直訴したため斬首に処せられが、正辰(惣八郎)は別家していたので芥見金田氏の祖となり、美濃国内の各務郡、加茂郡と上野国の新田郡内で計3,000石を与えられた。
美濃国内の各務郡と旧来の采地の計700石は、正辰の長男の金田正親の采地となり御家人となった。
寛文元年(1661年)、徳川綱吉が館林藩主となると金田正勝(与惣右衛門・遠江守)は奏者番を勤め、父の死で家督を嗣ぎ2代となり、寛文5年(1665年)には館林城の城代となり、寛文8年(1668年)7月に綱吉が5代将軍になると、天和元年(1681年)に御側役に進み、上野国緑野郡内に2000石を加増されて采地が計5000石となった。貞享3年(1686年)、病気により御側役を免ぜられ、元禄10年(1697年)に致仕し、元禄11年(1698年)に卒去した。
3代の金田正通(与三右衛門)は、元禄10年(1697年)に家督を嗣ぎ、次弟の正則(新太郎)に700石、末弟の正朝(新五左衛門)に300石を分知し、自らは4000石を知行した。元禄11年(1698年)、金銀吹所[3]番に命じられ、上野国新田郡内から3000石分を三河国の碧海郡と加茂郡の内に移され、さらに元禄14年(1701年)、美濃国の各務郡と加茂郡に移された。宝永3年(1706年)に54歳で卒去した。
4代の金田正澄(采女)は、3500石を知行し、弟の勝直(右近)に500石を分知した。享保元年(1716年)に33歳で卒去した。
5代の金田正甫(近江守・采女)は、3000石を知行し、弟の正峯(幸次郎)に500石を分知した(深萱金田氏)。安永5年(1776年)に70歳で卒去した。
6代の金田正延(近江守・采女)は、享和2年(1802年)に致仕。7代は養子の金田正彜、8代は金田正誼、9代は金田三右衛門の代に明治維新を迎え版籍奉還となった。
美濃国旗本の金田氏
芥見金田氏(本家)
- 美濃国
- 各務郡 芥見村の内(1000石0斗0升0合0勺0才0撮)・古市場村(506石3斗5升6合9勺9才5撮)・東門村(100石0斗0升0合0勺0才0撮)・東島村(127石1斗1升1合0勺0才0撮)
- 美濃国
- 加茂郡 西田原村(1123石7斗7升2合9勺4才9撮)・大山村(142石7斗5升9合0勺0才3撮)
芥見金田氏(金田小膳家)
正勝の次男の金田正則(新太郎)が初代である。正勝の致仕後の、元禄10年(1697年)、正勝の采地から700石を分知された。正則は享保3年(1718年)に63歳で卒去した。その後2代の金田正利は、宝暦8年(1758年)71歳で卒去。3代の金田正適は養子で、宝暦14年(1764年)64歳で卒去。4代は金田正秋、5代は金田正道6代は金田惣左衛門と続き、金田小膳の代に明治維新を迎え版籍奉還となった。
芥見金田氏(金田斧太郎家)
初代の金田正朝(新左衛門)は、正勝の致仕後の、元禄10年(1697年)、父の正勝の采地から300石を分知された。元文2年(1737年)に36歳で卒去した。その後、2代の金田正彌は、寛保3年(1743年)に36歳で卒去。3代の金田正富は、明和2年(1765年)に39歳で卒去。4代の金田正員は、安永7年(1778年)に49歳で卒去。5代の金田正喜は養子で、6代の金田正登の後は不明で、金田斧太郎の代に明治維新を迎え版籍奉還となった。
- 美濃国
- 各務郡 芥見村の内(200石0斗0升0合0勺0才0撮)
- 上野国
- 新田郡 飯田村の内(100石0斗0升0合0勺0才0撮)
深萱金田氏
- 美濃国
- 加茂郡 深萱村(323石1斗8升4合9勺9才8撮)
- 各務郡 東門村(176石8斗1升5合0勺0才2撮)
武蔵国旗本の金田氏
武蔵国の金田家は3,000石の旗本であった。武蔵国内における采地は、比企・入間・高麗・埼玉・秩父の5郡内の計21村であった。
金田貞之助家
最後の当主の金田貞之助は、文久2年(1862年)には御使番となり、慶応2年(1866年)には銃隊頭改役になった。幕府の第一線に立つ大身の旗本であったが、幕末には借財がかさんで、身動きもできなくなり、知行所21ヶ村の村役人と示談の結果、「御勝手向御改革御仕法」という財政収支の計画書を作り、向う六ヵ年間は節約の生活を余儀なくされた
- 武蔵国 比企郡
田中村(202石7斗9升2合0勺0才7撮)・田黒村(160石3斗1升7合9勺9才3撮)・古池村(194石2斗7升9合0勺0才7撮)・高野倉村(107石3斗2升2合9勺9才8撮)・和泉村(291石7斗7升8合0勺1才5撮)・桃木村(45石3斗8升1合0勺0才1撮)
- 武蔵国 高麗郡
川寺村(97石7斗8升1合勺9才9撮)・笠縫村(114石7斗4升0合9勺9才7撮)・岩沢村(394石8斗4升2合0勺1才0撮)・町屋村(173石8斗6升3合9勺9才8撮)・臑折村(90石9斗0升2合0勺0才0撮)・三角原新田(356石9斗4升6合7勺1才6撮)・阿須村(142石6斗6升7合9勺9才9撮)
- 武蔵国 入間郡
関間新田(82石3斗3升2合0勺0才1撮)・大谷村(407石3斗6升8合0勺1才1撮)・大谷村(253石5斗6升9合0勺0才0撮)・和田村(512石6斗2升0合9勺7才2撮)
金田二之助〔金發〕家
- 武蔵国 埼玉郡
船越村(99石1斗4升4合3勺0才2撮)・下新郷(71石8斗0升0合3勺0才1撮)
- 下総国 千葉郡
久々田村(50石0斗0升0合0勺0才0撮)・畑村(155石9斗3升8合9勺9才5撮)・検見川村(187石5斗0升5合9勺9才7撮)・曾我野村(6石4斗5升2合0勺0才0撮)
金田清吉家
- 武蔵国 埼玉郡
北河原村(179石2斗4升2合2勺0才3撮)
- 伊豆国 田方郡
仁田村(68石4斗3升5合2勺0才4撮)・柏谷村(126石9斗6升0合1勺9才7撮)・吉田村(64石4斗3升8合2勺0才2撮)
金田助左衛門家
- 武蔵国 秩父郡
太田村(66石9斗9升4合1勺0才2撮)
相模国旗本の金田氏
金田忠左衛門家
- 相模国 高座郡
稲荷村(193石3斗6升2合0勺0才0撮)
金田栄之助家
- 相模国 高座郡
西俣野村(133石6斗3升1合1勺0才4撮)