鈴木東民
日本の政治家
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生涯
生い立ち
1895年6月25日、釜石市唐丹町川目で生まれる[2]。旧制遠野中学校を経て、1920年に第二高等学校を卒業[3]後、東京帝国大学経済学部に進み、卒業する。1920年初冬、東大赤門前にあった文信社という謄写版印刷屋で、宗教上の対立で実家から家出同然に上京していた宮沢賢治と知り合う[4] [注釈 1]。
ベルリン特派員から第二次世界大戦まで
1923年(大正12年)に大阪朝日新聞に入社、日本電報通信社 (電通の前身、通信社) の海外留学生募集に応じて1926年(大正15年)8月6日に同社のベルリン特派員として渡独[6]。反ナチス、ヒトラー批判の記事を日本に送付[7]、当時の駐日ドイツ大使オイゲン・オットから危険視されて休職。1929年、法律事務所で働いていたゲルトルートと結婚[8]、長女のマリオンが生まれた。1934年、帰国後、ナチスを批判した『ナチスの国を見る』を刊行[9]。1935年(昭和10年)に外報部次長として読売新聞に入社、翌年には編集委員を兼任した[10][11]。しかし、ヒトラーを崇拝していた大島浩ベルリン駐箚大使の指示により外報部長から外された。1944年、平和的外交を主張する社説を書き、憲兵隊に逮捕されそうになった[12]。そして、治安維持法違反の横浜事件の関係者として磯子署に喚問された[13]が、今後一切執筆をさせないことを条件として、不問となった。鈴木は病気療養のためということで岩手県湯田村に移った[14]。
読売争議
第1次読売争議
鈴木は、日本の敗戦直後の1945年8月18日に上京し、読売新聞社主筆の高橋雄豺に自分の休職を解くように要求したが実現せず、湯田村に戻った。 9月13日、読売新聞社の社内機構の民主化を求める社員たちが意見書を提出したが、社長の正力松太郎に受け流された[15]。 鈴木は10月16日に再度上京、社長の正力は鈴木の復職を認めた[16]。 10月23日、鈴木を議長として社員大会が開かれ、従業員組合の結成、社内機構の民主化等を目指すことを確認した[17]。 社長をはじめとする幹部の退陣を要求したが、その回答は鈴木等5人への解雇通告であった[18]。 10月26日、従業員組合が結成され、鈴木が組合長となった[19]。当時、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からストライキ禁止の警告が出ていたため、一時的に従業員組合が経営を管理する方針を決めた[20]。組合によって「経営管理」された紙面には、「巧みに戦争責任韜晦 正力社長の言分」など、正力を批判する記事が載った[18]。 正力も、鈴木たちを業務執行妨害、不法占拠などで告発したため、鈴木たちは東京地検で取り調べを受けた[21]。 しかし、正力はA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監されることになり、12月11日に鈴木たちの解雇は撤回され、組合側が勝利した[22]。その後、鈴木は読売新聞編集局長に就任し、主筆、社会部長も兼務した[23]。
第2次読売争議
1946年1月12日に野坂参三が亡命先の中国延安から帰国すると、翌日の『読売報知』は「民主戦線今や成る!」という大見出しで報じた[24]。同年3月、ハリー・S・トルーマン米大統領は「共産主義の破壊活動鎮圧のための経済援助」、いわゆるトルーマン・ドクトリンを呼びかけた。それを受け、同年5月に開かれた対日理事会で、ジョージ・アチソン米代表が「アメリカは共産主義を歓迎しない」と発言した[25]。読売新聞は政府批判、占領政策批判の記事を掲載し続けたたため、当時の社長であった馬場恒吾は東民に局長辞職を要請したが、東民は拒絶した[26]。6月12日に馬場社長は総司令部を訪問し、「ダグラス・マッカーサー元帥・総司令部の意思として」東民を含む6人を解雇することの合意をとった。東民たちは「退社」を発令されたが、社内に堂々と入って集会を開いていた。そのため、馬場社長の要請を受けた吉田茂首相は6月21日に約500人の武装警官隊を読売社内に突入させ[注釈 2]、「首謀者」4名と「過激分子」53名を「業務妨害」と「住居侵入」の現行犯として逮捕した[28]。この日、たまたま東民は極東裁判に出廷していたため、逮捕されなかった[27]。「首謀者」4人は2週間勾留されたが、不起訴で釈放された。同年10月16日、読売新聞経営者と争議団の間で約定書が調印され、東民以下37名は解雇された[29]。第2次読売争議は、マッカーサーと吉田茂が介入した争議であり、最初のレッドパージである[30]。
釜石市長として
その後、自由懇話会理事長や民主主義擁護同盟常任委員を務める。日本共産党に入党し、衆院選や参院選に出馬したが落選、その後離党し、労働者農民党に移籍。1955年(昭和30年)に釜石市長に当選。1967年(昭和42年)まで3期務めたが、釜石製鉄所労働組合の元委員長に選挙で負け落選した[31]。しかし落選直後に釜石市議選に出馬し、市議を1期務めた。市長在職中の1958年に、市内を流れる甲子川上に日本で唯一無二の橋上市場を建設した。
晩年
1976年、釜石市の甲子川に鮭が上ってきた[注釈 3]という報せをうけ、以下のように書いている。
公害阻止のため釜鉄とたたかい、ぼくは市長選に敗れて釜石を追われたが、ぼくの代わりにサケがやって来た。公害を阻止したおかげである。民主主義を招来するために、戦争に反対し、起訴され、職を奪われ、強制疎開させられ、餓死一歩手前まで追いつめられたぼくの一生は、弱者の一生だった。現在の社会では正義を守ろうとする者は強者にはなれない。
著作
東民が発表した膨大な文章は、その多くが散逸してしまい、著作目録さえない[33]。
- 『ナチスの国を見る』福田書房、1934年。
- 『ふたつのベルリン』日本標準テキスト研究会、1962年。
- 『市長随想』刀江書院、1966年。
- 『ある町の公害物語』東洋経済新報社、1973年。
翻訳
- ゲオルギ・ディミトロフ 著、鈴木東民 訳『ドイツ国会放火事件と法廷闘争』五月書房、1949年。[注釈 4]
- 鈴木東民 訳『種子を粉にひくな ケエテ・コルヴィツの日記』同光社磯部書房、1953年。[注釈 5] / 『ケーテ・コルヴィッツの日記 種子を粉にひくな』アートダイジェスト、2003年2月。ISBN 4-900455-82-2。[注釈 6]
- ロルフ・R・ビグラー 著、鈴木東民 訳『体制と叛乱』新時代社、1969年。