鈴木重直 From Wikipedia, the free encyclopedia 鈴木 重直(生年不詳~天正12年3月13日(1584年2月2日)[1]は、戦国時代の武将。三河鈴木氏の支流・足助鈴木家の鈴木重政の子。鈴木信重の父。通称、喜三郎[2]。越後守・伊賀守・兵庫頭を称す[2]。松平清康の妹・久を室とする[1]。 生涯 足助城主・鈴木重政の子として生まれる。 大永5年5月14日、松平清康が2000余騎で足助城へ攻めよせると、父の重政は降り、重直は清康の妹・久を妻として契約した[3]。 天文4年(1535年)12月、清康が守山崩れで死亡すると、足助鈴木氏は松平氏から離れ、妻の久も岡崎へ帰されてしまった[3]。 天文23年(1554年)今川氏の馬場幸家・堀越義久に3500余騎で攻められたが、重直は防戦することができず、子の信重を人質にして今川氏に降った[3]。 弘治元年(1555年)9月、子の信重が美濃国の遠山氏と東広瀬城主三宅高貞と共に小渡城を築いて今川氏に反旗をひるがえすが、今川方の原田三郎衛門尉・簗瀬九郎左衛門尉ら阿摺衆に撃退された[4]。(三河忩撃) 永禄7年(1564年)10月6日、徳川家康が3000余騎でもって足助を攻めると、重直は子の信重を人質にして降り、一族の小原城主鈴木重愛と共に石川数正の組に配された。重直は重愛と同一行動を取っており、「足助衆」とか「足助小原衆」と呼ばれていたようである[5]。 元亀2年(1571年)4月15日、武田信玄・勝頼父子は足助城を攻め、重直・信重は城を捨てて19日に岡崎へ退いた。信玄は下条信氏を城代として守らせた。足助城落城に伴い、勢力下にあった浅谷・阿摺・八桑、松平方の大沼・田代も簡単に崩れ去った[6]。 元亀4年(1573年)、松平信康が武田方の足助城・武節城を陥落させると、足助には重直が復帰した[6]。 天正12年(1584年)3月13日、足助にて死去[1]。 脚注 1 2 3 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 1 2 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 1 2 3 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 1 2 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 Related Articles