長森原の戦い
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経緯
越中の神保慶宗は足利義材の下にて、反細川政権包囲網を形成する。だが、それを危惧した細川政元は、親しい関係にあった加賀一向一揆に越中攻撃を依頼。一向一揆側の事情も相まり、永正三年に越中を急襲し、神保方は越後や飛騨に逃亡した(永正三年一向一揆)。神保慶宗は上杉房能に救援を求められ、快諾。そのため、房能の命により、長尾能景が慶宗救援のために向かうことになった。
7月、能景は礪波郡にまで攻め上り、朝倉氏との協力による加賀の制圧も可能かと思われたが、一揆側と通じた慶宗の戦線離脱によって長尾勢は孤立し、壊滅。能景は討ち取られ、長尾為景が守護代を継ぐ(般若野の戦い)[1]。為景はこれを裏切りと見た。
また、房能が長尾にほぼ委任していた統治に対して支配体制を強めようとし、直接支配に乗り出した。さらにはその際に土地の面積や石高を正確に把握し税収入の徹底を試み、国人領主層の特権である守護不入の権益を廃止したため鬱憤が溜まっていた。[2]
それらの要因が積み重なり為景は房能に反発し続け最終的には上杉定実を擁立し、先手を打って軍事行動を開始する。房能側はそれに対して抵抗できず、房能は天水越で自刃する。
上杉顕定はこれを討たんとし、一時は長尾方が佐渡(越中国とも)へ敗走するも翌年には寺泊に上陸。そのまま上杉軍を打ち破ることに成功する。[3]
経過
地理
戦後
これによって、長尾為景が上杉定実を名目上の越後守護・越後上杉氏当主に擁立して越後を実質支配する体制が成立した。
越後長尾氏と山内上杉家の敵対関係は以後40年近くの間続くことになるが、山内上杉氏は新興の北条氏によって次第に圧倒されるようになり、天文17年(1548年)頃より関東管領上杉憲政(系譜上は顕定の孫)と越後守護代長尾晴景(為景の長男)の間で関係修復が図られるようになる[5]。間もなく、晴景は家中の内紛から弟の長尾景虎に家督を譲っているが、上杉憲政が北条氏康によって本国の上野を追われると、景虎はこれを受け入れた。そして、長森原の戦いから半世紀を経た永禄4年(1561年)に上杉憲政は長尾景虎に山内上杉家の名跡と関東管領職を譲ることになり、越後長尾家の系統が山内上杉家を継ぐことになった。

