間島氏
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間島氏の出自
間島氏の家祖である景能は播磨国佐用郡の地頭職を務めていた宇野則景の長男として誕生するが、北条義時の娘を母親に持つ末弟の家範が嫡男となったため、間島(間嶋)に居住して間島彦太郎(または間島太郎)と称した[3]。
鎌倉時代から室町時代
元弘3年(1333年)5月、赤松則村が護良親王の令旨を奉じて六波羅探題を攻め込んだ際、間島氏は宇野氏、柏原氏、佐用氏とともに赤松軍に従軍している[4]。また、戦功の詳細は不明だが貞和4年(1348年)12月26日には間嶋則清が足利尊氏より播磨国石見荘3分の1と、野口保の地頭職を恩賞として宛がわれている[4]。
また、間島氏が平野荘を知行した正確な時期は不明だが、建武2年(1336年)の箱根・竹ノ下の戦いの戦功において赤松貞範が播磨国明石郡伊川庄など20ヶ所を与えられていることから、間島氏が平野荘を知行するようになったのは建武2年(1336年)12月以降のことであったと思われる[4]。
南北朝時代、間島氏は摂津守護代も務めたが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏とともに坂本城において滅亡した[2]。しかし康正2年(1456年)に当代の間島彦太郎が赤松氏の遺臣とともに南朝より神璽を奪還(禁闕の変)[5]、その後神璽は南朝方によって奪い返されるも(長禄の変)、赤松遺臣の小寺藤兵衛入道・小河中務少輔が計略を用いて再び奪い返した。この功績によって室町幕府は赤松氏の家督を赤松満祐の甥に当たる赤松政則に継がせ、赤松氏はお家再興を果たした[6]。
長禄3年(1459年)10月、加賀国に入国を果たした間島河内守は加賀守護代を務めた[7]。応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発すると、河内守は主家である赤松氏に従い、同年7月25日、河内守は斯波義廉の屋敷に攻め寄せたが、大石を落とされた際に頭を砕いて戦死した[8]。
応仁の乱後、政則が赤松氏の旧領である播磨を山名氏から奪還すると、間島氏は平野荘付近に知行を与えられ、文明年間には蘆屋道満の末裔とされる土師道海に福中城を築かせている[8]。
戦国時代から没落まで
戦国時代、間島氏は別所氏に属していたが、天文23年(1554年)、三好長逸が播磨に攻め込んだ際に別所氏の三木城とともに居城である福中城を落とされ[8]、5年後の永禄2年(1559年)6月の三好長慶と安見直政との戦いでは別所氏とともに長慶に合力して河内国に攻め込んでいる[8]。
永禄7年(1564年)7月、長慶が死去すると三好三人衆と松永久秀との間に不和が生じ、遂に両者の間で激しい戦いが繰り広げられるようになる。
永禄9年(1566年)6月、2万5千人もの兵を率いて兵庫に上陸した篠原長房が松永方の越水城を攻め落とし、次いで松永孫六郎が守備する滝山城を攻撃した際には淡路十人衆の他、別所氏、明石氏、衣笠氏とともに三好勢に加勢し、8月17日に滝山城を落城させている[9]。
天正8年(1580年)頃、間島氏勝は播磨に侵攻した羽柴秀吉に臣従した。後に別所長治が織田信長から離反すると氏勝の父である氏常は別所方に与したが、氏勝は織田方に留まった[10]。
天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いの後、淡路国岩屋城主となった氏勝は秀吉の麾下として各地を転戦して1万石を知行する大名にまで栄達したが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため没落した[11]。その後、氏勝は同族のよしみで黒田如水に寄食したとも[11]、または帰農したとも伝えられる[2]。
脚注
- ↑ 千鹿野 2004, p. 286.
- 1 2 3 森岡 2013, p. 483.
- ↑ 神戸市教育委員会 1961, p. 17.
- 1 2 3 神戸市教育委員会 1961, p. 19.
- ↑ 神戸市教育委員会 1961, p. 21-22.
- ↑ 神戸市教育委員会 1961, p. 23-24.
- ↑ 神戸市教育委員会 1961, p. 24.
- 1 2 3 4 神戸市教育委員会 1961, p. 25.
- ↑ 神戸市教育委員会 1961, p. 25-26.
- ↑ 神戸市教育委員会 1961, p. 31.
- 1 2 高柳 & 松平 1981, p. 224.