狂言
猿楽から発展した日本の伝統芸能
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狂言(きょうげん)は、主として科(しぐさ)と白(せりふ)によって表現される、日本の古典的な喜劇・せりふ劇である。中世の猿楽から能とともに発展し、室町時代以来、能と同じ能舞台で上演されてきた。明治時代以降、能・狂言・式三番はあわせて能楽と総称される[1][2]。

能が古典的な題材を謡・囃子・舞によって表現する象徴性の強い歌舞劇であるのに対し、狂言は日常的な出来事や人間関係を、対話と動作を中心に笑いとして描く。大名、太郎冠者、聟、夫婦、僧侶、山伏、座頭、盗人のほか、神仏、鬼、動物なども登場し、中世社会を背景としながら、人間の見栄、欲望、無知、失敗などを題材とする[1][2]。
狂言はせりふを主体とするが、謡、舞、語り、囃子を用いる曲も多い。したがって能との違いは楽器の有無ではなく、せりふ・所作・歌舞・音楽の比重と、それらによる表現の性格にある[2]。
狂言を含む能楽は1957年(昭和32年)12月4日に重要無形文化財に指定され[3]、2008年には「能楽」としてユネスコ無形文化遺産の代表一覧に記載された[4]。
語義と名称
「狂言」はもともと、常軌や道理から外れた言葉・行為、たわごと、冗談などを意味する漢語である。日本では『万葉集』にも用例があり、平安時代には、事実ではない内容を飾って表現した文章や文学を指す「狂言綺語」の語も用いられた。その後、「狂言」は滑稽な言動や冗談を意味する普通名詞となった[5][2]。
舞台芸能の名称としては南北朝時代に現れ、初めは寺院で行われた延年の演目名として、のちに能とともに上演される滑稽な芸を指す語として定着した[6][2]。
江戸時代中期以降には、歌舞伎や浄瑠璃の脚本・演目、あるいは芝居そのものも「狂言」と呼ばれた。このため、能楽の狂言を「能狂言」、歌舞伎の演目を「歌舞伎狂言」と呼び分けることもあった。「通し狂言」「世話狂言」「顔見世狂言」「狂言作者」などの語に、この用法が残っている[7][5]。
また、事実らしく仕組んだ作り事や、人を欺くための虚構を意味する用法も江戸時代に生じ、現代でも「狂言誘拐」「狂言強盗」などの複合語に用いられる[5]。
歴史
前史と成立
狂言の直接的な成立過程は明らかではない。奈良時代に大陸から伝来した散楽には物まねや滑稽芸が含まれ、平安時代に散楽から転じた猿楽にも、即興的な物まねや笑劇があった。平安時代中期の藤原明衡の作とされる『新猿楽記』には、京の街で演じられた滑稽な芸と演者の名が記録されている。ただし、これらの芸と後世の狂言との直接的な関係については、明らかでない部分が多い[1][2]。
「狂言」を芸能の一種として記した早い例は、観応3年・正平7年(1352年)の『周防国仁平寺本堂供養日記』にみえる。寺院の延年の演目として「狂言 山臥説法」が記されているが、その具体的な内容や形式は伝わっていない[6]。
南北朝時代から室町時代にかけて、即興的な滑稽芸は、筋と登場人物を備えた対話劇へ発展したと考えられている。大名や僧侶など権威をもつ人物を笑いの対象とし、太郎冠者や盗人など社会的に低い立場の人物を活躍させる構図には、中世社会の変化と庶民的な視点が反映されている[6][2]。
室町時代
14世紀には観阿弥・世阿弥によって能が大成された。狂言も同じ猿楽の座に属し、能と同じ舞台で交互に上演されるようになった。世阿弥の『習道書』や『申楽談儀』からは、15世紀前半までに、能と狂言の交互上演、能の途中に登場するアイ、式三番における三番叟の担当という、後世まで続く関係が成立していたことがわかる[1]。
当時の狂言はなお即興性が強く、筋書きだけを定め、せりふや所作を演者が補いながら演じていたと考えられる。『看聞日記』の応永31年(1424年)3月11日条には、公家の困窮、比叡山の猿、僧侶の不行跡を題材にした狂言が、上演場所の関係者の怒りを買ったことが記されている。この記録からは、当時の狂言が社会に密着した風刺を含んでいたことがうかがえる[6][1]。
天正6年(1578年)の奥書をもつ『天正狂言本』には、100番余りの筋書きが簡潔に記されている。記述は人物の行動と話の展開を示す程度で、せりふの多くは即興に任されていたとみられる。一方、収録曲の約8割は現行曲とおおむね同じ内容をもち、16世紀末までにレパートリーと筋立てが定着し始めていたこともわかる[1]。
江戸時代
江戸時代になると、狂言は能とともに武家の式楽として幕藩体制に組み込まれた。狂言方は能のシテ方の座に所属し、幕府や諸藩から扶持を受けた。この制度は狂言を武家社会の統制下に置く一方、演者が技芸の修練と伝承に専念し、演目、せりふ、演技の型を整備する基盤にもなった[1][2]。
江戸時代前期までに大蔵流、和泉流、鷺流が成立し、三流が並立した。ほかに南都禰宜流、脇本、田中などの小流派も存在したが、多くは三流へ吸収されるか、歌舞伎など別の芸能へ移行して消滅した[1][2]。
せりふの定着と流派意識の形成に伴い、各流派では詞章や所作を記録した台本が整備された。また、一般向けには『狂言記』とその続編が刊行され、狂言は上演芸能だけでなく、読み物としても広まった[1][2]。
明治時代以降
明治維新によって幕府・諸藩の保護を失うと、狂言界は深刻な打撃を受け、三流の宗家はいずれも一時断絶または廃業した。大蔵流では山本東次郎家、茂山千五郎家、茂山忠三郎家など、和泉流では三宅家、野村家などの弟子家が芸統を支え、のちに両流の宗家も再興された[1][2]。
鷺流は、明治時代に中央の職業的流派としては断絶した。一方、その芸の一部は山口県山口市、新潟県佐渡地方、佐賀県神埼地方などで地域的な伝承として残された[1][2]。
第二次世界大戦後には、狂言が能に付随する芸ではなく、簡潔な構成と独自の演技様式をもつ喜劇として再評価された。1950年代以降、狂言だけを上演する会や新作狂言の創作が増え、現代演劇との交流や海外公演も活発になった[1][2]。
台本と日本語史資料
狂言の台本が固定されるのは比較的遅く、室町時代末期から江戸時代前期にかけて、筋書きを中心とする記録から、せりふや演出を詳しく記す台本へと段階的に整えられた。『天正狂言本』は現存最古の狂言台本であるが、その記述は人物の行動や話の展開を簡潔に示す筋書きを中心としている。江戸時代には流派や家ごとに詞章や所作を記録した台本が整備され、『大蔵虎清間・風流伝書』のように、間狂言・風流のほか、装束、役者の登退場、囃子などを記した伝書も作られた[8][9]。
大蔵虎明が寛永19年(1642年)に書写した『大蔵虎明本』(『虎明本狂言集』)は、大蔵流の祖本とされ、本狂言237曲を収める。本狂言の詞章を分類して体系的に収録した初期の完備した台本であり、中世・室町時代の言葉を伝える部分、書写当時の近世初期の口語の影響を受けた部分、舞台言語として固定化・類型化した部分が併存している[10]。
狂言台本は、せりふとト書きを中心とする対話劇であり、発話の場面や状況、登場人物の身分関係が比較的明確である。このため、中世から近世にかけての口語、語彙、待遇表現などを研究する日本語史資料として用いられてきた[10]。
流派や家に伝わる台本とは別に、近世には一般向けの版本も刊行された。万治3年(1660年)から享保15年(1730年)にかけて刊行された『狂言記』『狂言記外』『続狂言記』『狂言記拾遺』は、各50番、計200番の詞章を収める。家元の台本が一般に公開される以前には、これらの版本が狂言の内容や言語を研究するための主要な資料であり、絵入りの読み物としても享受された[1][11]。
荻野千砂子は、版本『狂言記』の詞章や所作には、当時の主要な家元流派では用いられなくなった表現や、家元台本とは異なる流儀に由来するとみられる要素が含まれると指摘している。また、家元台本では舞台言語として古い表現が保持される一方、版本『狂言記』には、待遇表現、命令形の語尾、語彙などに同時代の言語変化をより早く反映した例があるとして、日本語史資料としての価値を論じている[11]。
上演形態
狂言方が能楽のなかで担当する芸は、本狂言、間狂言、式三番における三番叟・風流に大別される[2]。
本狂言
本狂言は、独立した筋をもつ一曲の演劇である。通常、「狂言」という場合は本狂言を指す。現行曲は大蔵流で約200番、和泉流で約250番とされ、その多くは両流に共通するが、台本、曲名、人物設定、演出には流派や家による違いがある[1]。『日本大百科全書』は、大蔵流180番(茂山千五郎家・山本東次郎家では各約200番)、和泉流254番とする[2]。
本狂言は通常2人から4人ほどで演じられ、上演時間は20分から40分程度の曲が多い。『武悪』『釣狐』『花子』など、1時間前後に及ぶ曲もある[1][2]。
本狂言は能と能の間に上演されることを本来の形とするが、狂言だけを連続して上演する「狂言尽くし」も安土桃山時代から行われており、第二次世界大戦後は独立した狂言公演が増加した[2]。
間狂言
間狂言(あいきょうげん)は、能の一部に狂言方が登場して演じる役および場面で、単に「アイ」ともいう。前シテが退場して後シテとして再登場するまでの中入で、土地の者などに扮して能の由来や前半の出来事を説明する語リ間、能の諸役と応対するアシライ間、複数の狂言方が小規模な劇を演じる劇間などがある[2]。
アイは身分の低い土地の者として登場することが多いが、能の物語を観客に理解させ、前場と後場をつなぐ役割を担う。
三番叟・風流
三番叟は、能楽の儀式芸である『翁』で狂言方が担当する舞である。大蔵流では「三番三」と表記する。シテ方が演じる翁の退場後、五穀豊穣を祈って演じられ、素面で力強く舞う「揉ノ段」と、黒式尉の面を着け、鈴を持って舞う「鈴ノ段」からなる[2]。
風流は『翁』の特殊演出として演じられる祝言性の強い芸で、多数の役者が華やかな装束で登場する[2]。
登場人物と曲目
役柄
主役は能と同じくシテと呼ばれ、相手役はアドと呼ばれる。和泉流では主要なアド以外を小アドと呼ぶ。参詣人や花見客など、同じ性格の人物が集団で登場する場合は立衆といい、その統率役を立頭またはオモと呼ぶ[2][12]。
登場人物の多くは固有名をもたず、「大名」「太郎冠者」「聟」「出家」「山伏」「座頭」「すっぱ」「商人」「鬼」など、社会的な立場や役割を示す類型名で呼ばれる。歴史上の人物が登場する場合も、史実上の人物としてではなく、好色、怪力、尊大さなど、特定の性質を示す存在として扱われることが多い[2]。
狂言の作者は大半が不明である。玄恵法印、金春四郎次郎、宇治弥太郎などを作者とする伝承があるものの、確実なものとはみなされておらず、多くの曲は代々の狂言師によって作られ、改作されながら伝承されたと考えられている[1][6]。
本狂言の分類
本狂言は、主としてシテの人物類型によって分類される。分類法や所属曲は流派・家、研究者によって異なり、人物類型とは別に、曲の構成や演出形式を基準としてまとめられる曲群もある。大蔵流の分類を基礎に示すと、おおむね次のようになる[13][6]。
| 分類 | 主な内容 | 代表的な曲 |
|---|---|---|
| 脇狂言 | 神仏、果報者、百姓などが登場し、福や豊作、天下泰平を祝う曲 | 『末広がり』『福の神』『筑紫奥』『宝の槌』 |
| 大名狂言 | 地方の土豪ほどの大名を主役とし、その尊大さ、無力さ、迂闊さなどを笑う曲 | 『靱猿』『蚊相撲』『鬼瓦』『萩大名』『二人大名』 |
| 小名狂言 | 主人に仕える太郎冠者を主役とし、酒好き、横着、機転、失敗などを描く曲 | 『附子』『棒縛』『千鳥』『木六駄』『素袍落』 |
| 聟・女狂言 | 聟入り、結婚、夫婦の対立、妻の強さなど、男女や家族を題材とする曲 | 『二人袴』『水掛聟』『鎌腹』『箕被』『花子』 |
| 鬼・山伏狂言 | 鬼、閻魔、雷、山伏などの威厳と、実際の無力さとの落差を描く曲 | 『節分』『首引』『柿山伏』『蟹山伏』『蝸牛』 |
| 出家・座頭狂言 | 僧侶の無学や貪欲、宗派争い、座頭の生活や哀感などを描く曲 | 『宗論』『布施無経』『月見座頭』『川上』 |
| 集狂言 | 盗人、すっぱ、商人など、他の分類に収まりにくい人物や題材を扱う曲 | 『瓜盗人』『連歌盗人』『茶壺』『磁石』『釣狐』 |
| 舞狂言 | 夢幻能に似た構成をとり、亡霊などとして現れるシテの謡や舞を一曲の中心とする曲 | 『楽阿弥』『通円』『祐善』『蛸』 |
舞狂言は、登場人物の身分や役柄ではなく、曲の構成と演出形式に着目した分類である。通常はせりふの応酬を中心とする狂言のなかで、夢幻能に似た内容と構成をもち、亡霊として現れるシテの舞が一曲の中心となる。分類される曲は流派や分類法によって異なる[14][15]。
新作狂言
明治維新以降に新たに創作された作品は新作狂言と総称される。古典狂言の演技様式や人物類型を用いて新しい題材を扱う作品のほか、民話、落語、文学作品などを素材とする作品も作られてきた。試演された作品は多数に及ぶが、繰り返し上演されて現行のレパートリーに定着したものは限られる[2][16]。
代表的な作品に、巖谷小波の『風無し凧』(1923年)、飯沢匡の『濯ぎ川』(1952年)、木下順二の『彦市ばなし』(1955年)、小松左京の『狐と宇宙人』(1979年)、帆足正規の『死神』(1981年)、高橋睦郎の『梅の木』(1995年)、いとうせいこうの『鏡冠者』(2000年)などがある[16][17][18][19]。
笑いと主題
狂言は「笑いの芸能」とされるが、その笑いは一様ではない。辞典類では、狂言にみられる笑いを、祝言性、風刺性、滑稽性という三つの側面から説明している。ただし、これらは曲ごとに明確に分離されるものではなく、一つの曲のなかで重なり合う場合も多い[1][2]。
祝言性
笑いには福を招き、場を寿ぐ力があるという考えから、狂言には祝言劇としての性格が認められる。脇狂言では、恵比寿や大黒天などの神が人に福を授ける話、百姓が年貢を無事に納める話、果報者の繁栄を描く話などが演じられる。祝言性は脇狂言だけに限られず、曲中の謡や舞、結末の言葉を通じて、上演の場全体を祝福する形でも表される[1][2]。
風刺性
成立期の狂言には、その時代の政治や社会に直接かかわる風刺が含まれていた。『看聞日記』に記された「公家人疲労の事」や、『天正狂言本』所収の「近衛殿申状」において、農民が年貢の減免を訴える場面などは、その例である[1][6]。
現行曲では、特定の時事問題を扱う風刺は少なくなり、大名の尊大さ、僧侶の無学、山伏の無能力、太郎冠者の横着や小心といった、人間一般にみられる弱点を笑う形が中心となっている。中世の身分や職業を描きながらも、その笑いは時代を超えた人間喜劇として受け取ることができる[1]。
滑稽と哀感
狂言の滑稽性は、失敗、勘違い、見栄、言葉の取り違え、立場の逆転などから生まれる。成立期には粗野・卑猥な笑いも多かったと考えられるが、能と同じ舞台で演じられ、江戸時代に武家式楽として整備される過程で、笑いの表現は洗練された[1][2]。
一方、すべての曲が明快な笑いだけを目的とするわけではない。『川上』『月見座頭』などの座頭狂言には、障害をもつ人物の知恵、孤独、夫婦の葛藤などが描かれ、哀感や詩情を感じさせるものもある[2]。
演出と演技
舞台と構成
狂言は原則として能舞台で演じられる。大がかりな背景や舞台装置を用いず、言葉、所作、小道具、観客の想像力によって、家、街道、山野、寺院などの場所を表す[2]。
登場人物は鏡の間から橋掛りを通って現れ、舞台を一巡することで長い距離を移動したことを示す。劇中でその場にいない人物は、狂言座、後見座、笛座前などに静かに座り、演技の進行から外れたことを表現する[20]。
多くの曲は、登場人物が「これはこのあたりに住まいいたす者でござる」などと自己紹介する名乗りで始まる。続いて、相手を呼び出すか、舞台を一巡する道行を経て本筋へ入る。結末も類型化され、逃げる者を追う追込み留め、叱り留め、笑い留め、謡留め、囃子留めなどがある[2]。
型と写実性
狂言の演技は日常動作の単純な模倣ではなく、「型」によって様式化されている。腰をやや落とした構え、摺足による歩行、人物の身分や性格に応じた発声と姿勢など、能と共通する基礎をもつ。一方、泣き声や笑い声を実際に発し、飲食、争い、酔態などを具体的に演じる点では、能より写実的な表現が目立つ[2]。
演技の中心となる手法は、特徴的な部分を大きく示す誇張と、不要な細部を取り除く省略である。人物や動作を類型化しながら、役柄の本質を明確に示すことで、簡潔な舞台上に多様な場面を成立させる[1]。
せりふと擬音
狂言のせりふは中世の口語を基調としながら、長い伝承の過程で発音、抑揚、間の取り方が様式化されている。日常会話より声を明瞭に響かせ、語句の切れ目や音の強弱をはっきり示す独特の発声法を用いる[2]。
戸を開閉する、酒を注ぐ、茶碗を割る、鋸で物を切るといった動作では、実際の効果音を用いず、演者が擬声語を発しながら演技する。写実的な動作と抽象的な音声表現を組み合わせる、狂言独特の演出である[1][2]。
謡・舞・囃子
狂言はせりふ劇であるが、謡、舞、語り、囃子も用いられる。酒宴、商人の売り声、喜びや恋情の表現、主人の機嫌直し、曲の祝言的な終結など、物語の展開に応じて歌舞が挿入される[2]。
狂言に用いられる歌謡は狂言謡と総称され、小舞を伴う小舞謡、特定の曲だけで謡われる特定狂言謡、酒宴で謡う酌謡などに分けられる。小舞は単独でも上演され、狂言師の発声、姿勢、運歩を養う基礎的な修練でもある[2]。
囃子を伴う曲も多く、能と同じ名称の曲を用いる場合でも、旋律や演奏法は簡略化され、軽快な性格をもつことが多い[2]。
稽古と伝承
狂言師の修業内容や曲を習う順序は、流派や家によって異なり、狂言方全体に共通する一律の課程が定められているわけではない。一方、本狂言や間狂言を演じる基礎として、謡、舞、語りなどの技術を段階的に身につける。狂言師の家に生まれた子どもの場合、幼少時から大人の発声や動きをまねることなどによって稽古を始め、子方として初舞台を踏み、成長と習得の段階に応じて演じる曲を増やしていく[21][22]。
謡の稽古では、大きく明瞭な声を出すことから始め、腹式呼吸、調子、節回しなどを学ぶ。舞では、正しい姿勢や基本的な型を反復して身につける。狂言師は数十番ある小舞を順に習い、小舞で身につけた型を本狂言の演技にも応用する。語りでは、身振りを交えながら情景や合戦の様子などを表し、息の流れを生かして言葉に緩急をつける[23][24]。
修業の段階ごとに課題となる曲を初めて正式に演じることを披くという。『釣狐』は高度な技術力、体力、精神力を必要とし、一人前の狂言師として認められるための重要な課題とされる。その後も役者としての節目ごとに、『花子』『木六駄』など、舞・謡・演技に高度な技術を要する「重習い」の曲が披かれる。ただし、曲の位置づけや習得の順序は流派や家によって異なる[25]。
面・装束・道具
狂言は素顔で演じるのを原則とし、面の使用は神仏、鬼、動物、醜女など特殊な役に限られる。『清水』『六地蔵』のように、登場人物が鬼や仏像になりすますための小道具として面を用いる曲もある[2]。
装束は能装束に比べて簡素で、室町時代の庶民や武士の服装を様式化したものが多い。太郎冠者などは肩衣と半袴を着け、肩衣や袴には鬼瓦、鳴子、案山子、農具、船など、庶民生活を題材とする大胆な文様が施されることがある[2]。
女性役も男性の狂言師が演じる。特殊な役を除いて女面は用いず、「ビナン」と呼ばれる長い白布を頭に巻き、顔の両側へ垂らす扮装によって女性を表す[2]。
大道具はほとんど使用しない一方、小道具は写実的・象徴的な双方の方法で用いられる。扇は盃、銚子、筆、戸、鋸、太刀などを表し、葛桶は腰掛、酒樽、茶壺、柿の木などに見立てられる。最小限の道具を複数の物に転用することで、舞台上の空間を自在に変化させる[1][2]。
流派
江戸時代の狂言には、大蔵流、和泉流、鷺流の三流があった。このうち、職業的な能楽師の流儀として現在まで伝承されているのは大蔵流と和泉流である[1][2]。
大蔵流
大蔵流は、大和猿楽の狂言方を基盤として室町時代後期に形成された流派で、現存する狂言流派のうち最も古い系統をもつ。江戸時代には幕府直属の流儀となった。明治維新後は山本東次郎家、茂山千五郎家、茂山忠三郎家などによって芸統が維持され、のちに宗家も再興された[1][2]。
和泉流
和泉流は、江戸時代初期に、京都で禁裏御用を勤め、尾張藩や加賀藩にも仕えた山脇和泉家を中心に、三宅家、野村家などが合同して形成した流派である。複数の家が独自の台本を伝えたため、同じ流派の内部でも詞章や演出に違いがある[1][2]。
鷺流
鷺流は江戸時代前期に成立し、大蔵流・和泉流とともに狂言三流の一つとして栄え、幕府直属の流儀となった。明治維新後には幕府と座の保護を失って衰退し、明治28年(1895年)に宗家が廃絶したのち、大正時代末期までに中央の狂言界から姿を消した[1][2][26]。
中央の職業的流派としては断絶した一方、その芸は山口県山口市、新潟県佐渡市、佐賀県神埼市などで地域的に伝承された。山口には、春日庄作が明治19年(1886年)に野田神社の神事能へ招かれて狂言を演じたことを契機として伝えられ、1967年に山口県の無形文化財に指定された[27]。
佐渡の鷺流狂言は、江戸時代後期に新穂潟上の葉梨源内が広め、幕末に来島した三河静観や、明治時代に旧真野町の鶴間兵蔵らによって盛んになったと伝えられる。その後は後継者が減少し、昭和30年代には消滅したと考えられていたが、昭和50年代に旧真野町で伝承者が確認されたことから再興された。1981年に佐渡鷺流狂言研究会が発足して後継者の育成や狂言本の研究を進め、1984年に新潟県の無形文化財に指定された[26]。
佐賀県神埼市千代田町高志地区に伝わる高志狂言は、高志神社の能舞台で奉納されてきた地域芸能である。鷺流の秘曲とされる『半銭』のほか、『附子』『萩大名』『千鳥』などを伝え、地域の家元と住民によって継承されてきた。1971年に佐賀県重要無形民俗文化財に指定された[28]。
他の芸能・文学への影響
狂言は日本で早く成立した本格的なせりふ劇・笑劇として、後代の芸能や文学に影響を与えた。歌舞伎の成立期には狂言師が役者や小舞の指導者として参加し、本狂言を翻案した歌舞伎の演目も作られた[1][7]。
江戸時代後期から明治時代には、狂言を歌舞伎舞踊に移した松羽目物が発達した。『素襖落』『二人袴』『身替座禅』『棒しばり』『茶壺』『悪太郎』などは、狂言の筋や演出をもとにした歌舞伎舞踊として上演されている[2]。
文学では、井原西鶴、近松門左衛門、俳諧、川柳、小咄、落語などに狂言の詞章や趣向が取り入れられた。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』とその続編には、『丼礑』『附子』『墨塗』など、狂言に由来する趣向が多数用いられている[1][2]。
第二次世界大戦後には、簡潔な舞台構成、明瞭な発声、様式化と写実性を組み合わせた演技が現代演劇から注目された。狂言師が新劇、ギリシア劇、現代劇などへ参加したほか、俳優養成の一環として狂言の発声や身体技法を学ぶ試みも行われた[1][2]。
海外公演と受容
第二次世界大戦後、狂言が初めて海外で上演されたのは、1957年にパリのサラ・ベルナール座で行われた能楽公演である。当時は、狂言がせりふを中心とするため、外国語圏の観客には理解されにくいと考える関係者もいた。しかし、野村万之丞、野村万作、野村又三郎らが演じた『棒縛』『梟山伏』は、とくに若い観客から強い反応を得た[1]。
1963年には、野村万蔵、野村万作らがアメリカのワシントン大学に招かれ、実技指導と各地での公演を行った。1965年の西ベルリン芸術祭では、野村万蔵が『瓜盗人』を演じ、演技が高く評価された。一方、欧米における批評には、狂言の動作や演技を評価しながらも、その発声に違和感を示すものもあり、受け止め方は地域によって一様ではなかった[1]。
その後、狂言の公演は欧米、アジア、南米などへ広がり、講義、実技指導、ワークショップも行われた。海外では、狂言の様式的な演技を学び、英語による狂言や、童話・ギリシア劇などを狂言の演技様式によって上演する試みも生まれた[1]。