関則可

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関 則可(せき のりよし、1939年? - 2026年2月7日[1])は、将棋観戦記者、将棋ライター。将棋のアマ強豪としても知られた。

朝日新聞観戦記者時代は「酔象」名義で紙上に観戦記を載せていた。

また、アマ名人となり、「81番勝負」(後述)では真剣師としてもその名を馳せた。1977年8月、同じく朝日新聞記者だった柿沼昭治らと共に日本アマチュア将棋連盟を設立、自ら理事長となった。現在は日本アマチュア将棋連盟からは完全に退いたものの詰将棋作家として名を馳せている。

1961年 第15回全日本アマチュア将棋名人戦準優勝(東地区名人)。この時、決勝で関を破った若松政和は規定により史上初のアマ六段となり後にプロ棋士となった。

1962年 第16回全日本アマチュア将棋名人戦で前年に続き2年連続で決勝に進出するが、花園稔に敗れまたも準優勝に終わる(東地区名人)。

1967年 第21回全日本アマチュア将棋名人戦で3度目の準優勝(東地区名人)。この時は沖元二に敗れた。

1968年 第22回全日本アマチュア将棋名人戦で赤木文造を破り初優勝。アマ名人となり規定により六段に昇段。

1977年 柿沼昭治、今福栄、岸本王晴らと共に日本アマチュア将棋連盟を設立、当時自らが運営していた立川将棋センターに事務局を置き同連盟の専務理事となった。以後長らく、同連盟が発行していた機関誌「将棋ジャーナル」発行人を務めた。

日本アマチュア将棋連盟は2020年現在も全国大会を始めとして多くの大会を開催しているが、それらで関の名前を見かける事は少なくなった上、立川将棋センターでレーティング大会を開くなどもなく、積極的に活動に協力する事はなくなった。

かつて自らが設立し理事を務めた日本アマチュア将棋連盟であるが、現在はその運営からは退き、事務局が四日市に移転して以降は、少々距離を置いている様である。

創設当初より日本アマチュア将棋連盟の将来の法人化を見据えていた様で、同連盟が2019年11月12日付で法人化した事を後日、かつての仲間からの報告で知った際には、理事長当時からの長年の夢であったと大変喜んでいた様である。

2026年2月7日、肝臓がんにより86歳で死去した[1]

エピソード

著書

脚注

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