関口義慶二
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関口玉吉の長男として群馬県邑楽郡高島村(現・邑楽町)に生まれる[2][5][6]。1903年(明治36年)3月、群馬県師範学校を卒業後、教員となり、1907年(明治40年)3月、群馬県川場小学校の校長に就任[2][3][4]。
ついで、官界に転じ、同県北甘楽郡視学、群馬県属、知事官房主事、碓氷郡長、山田郡長を経て、1925年(大正14年)8月12日に桐生市長に就任[2][5][3][4]。1933年(昭和8年)に桐生火葬場事件の責任を取って一旦辞任したものの[7]、市議会に推されて[8]40日後に再就任し[7]、1940年(昭和15年)5月まで市長を務めた[5][3]。
1934年(昭和9年)の昭和天皇誤導事件は桐生市で発生した。桐生市に直接の責任はなかったが[7]、桐生市長の関口と桐生市議会議長は謝罪文を発表するとともに、東京の宮内省に出向いて謝罪している[9]。
15年にわたる在任期間中に、上水道の完成や学校・図書館の建築、道路河川の改修、市斎場の建設などの実績を残した[3][1]。
1930年(昭和5年)勲六等瑞宝章、1934年(昭和9年)勲五等単光旭日章(原文ママ)受章[3]。従六位を追陞された[10]。墓所は桐生市の妙音寺[3][4]。
脚注
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- 1 2 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、289頁。doi:10.11501/12189010。 (
要登録) - 1 2 3 4 帝国自治協会 1938, 19頁.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 桐生市史編纂委員会 編『桐生市史』 中、桐生市史刊行委員会、1959年3月8日、750-751頁。doi:10.11501/3024326。 (
要登録) - 1 2 3 4 群馬県教育史研究編さん委員会 編『群馬県教育史』 別巻 人物編、群馬県教育委員会、1981年3月30日、40頁。doi:10.11501/12114277。 (
要登録) - 1 2 3 帝国秘密探偵社 1943, 群馬15頁.
- ↑ 人事興信所 1928, セ16頁.
- 1 2 3 先覚の群像 1981, p. 144.
- ↑ 桐生市制十五年誌後編 1937, p. 1540.
- ↑ 先覚の群像 1981, p. 172.
- ↑ 『官報 1945年02月14日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
- 帝国自治協会 著『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1458365。
- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1229896。
- 人事興信所『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127124。
- 桐生市制施行六十周年記念行事実行委員会 編「市の路線を固める 関口義慶二」『先覚の群像』桐生市、1981年、144-172頁。NDLJP:12253288/80。
- 桐生市 編『桐生市制十五年誌 後編』桐生市、1937年、1540頁。NDLJP:1451921/462。
