関戸の宝塔

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関戸の宝塔(せきどのほうとう)は、茨城県古河市関戸にある石造宝塔平安時代末期の造立と推定される。関戸地域の中世を知るためには重要な史料である。

「関戸の宝塔」と通称される。「関戸の石造宝塔」、「石造宝塔」とも呼ばれる。総高201cm。石質は凝灰岩大谷石)。旧金剛寺にあったが、不動堂だけが残され、その境内にある覆屋に保存されている。精巧な造りや流麗さから、特に優れた石工の作品と評価される。古河市指定文化財(工芸品)。[1] [2] [3] [4]

造形

上から順に、相輪・笠・塔身・基盤とで構成。総高201cmに対し、笠部の幅は110cm、塔身の直径は48cmで、全体に細長く、大ぶりな笠部が特徴である。笠部は本瓦葺き風で、裏側には垂木も刻出されており、木造建築を模した写実的な造作。塔身はくびれがなく、やや角ばった円柱状。塔身部には梵字顕教四方仏を基本とする種子が刻まれている [5] 。塔身部の大日如来種子の下の銘文には、「敬白 奉造立石塔一宇 廻□御芳餞宗治□ 殊両所為父母成佛」と記されており、父母の供養塔であることがわかる。[3] [4]

造立年代

前記の銘文には紀年銘「□安四年」とあるが、□は摩滅のため不鮮明で、偏と旁があるなど微かな特徴が判別できる程度。弘安仁安の両方が考えられる。銘文全体が中国六朝から代の特徴を持つ古い隷書体であることから、□を隷書体とみると「弘」より「仁」が妥当、個性的な造形からは宝塔形態が様式化する鎌倉初期以前の作品とみるべき、所在地である関戸の歴史的背景などの理由から「仁安四年」(1169年)の可能性が高いとされる。国内の現存石造宝塔のなかでも最古のひとつになる。なお願主名は摩滅が進み判別できない。[1] [3] [4]

下河辺氏と関戸の中世

中世の関戸は下河辺荘野方に属し、この地域を支配した下河辺氏が願主・造立主体であった可能性が指摘されている。下河辺氏は平安末期に下野小山氏から分立し、下総(茨城県西部・千葉県北部)に進出した一族である。京都と東国の間を行き来した[6]武士であり、都の文化に精通し、都の石工とも接触できた。下河辺氏であれば、平安末期に優れた石造物を造立可能であった。石材(大谷石)も、小山氏との関係から入手しやすかったと思われる。[3] [4] [7]

関戸・小堤は宮戸川の西岸にあり、鎌倉街道(中道)の支道も縦断したとされる[3]。下河辺氏(下河辺行義か)が小山から進出する際にも、水陸交通面から拠点に適していた。小堤の円満寺に残された法具(五鈷鈴・三鈷杵)も、この地域における下河辺氏の活動の痕跡と考えられている。下河辺行平古河城の地に居館を設ける前に、下河辺氏の開発拠点となったことを示す。[3] [4] [7]

金剛寺

現在の所在地

脚注・参考文献

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