関東神宮
関東州旅順市にあった神社
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概要
祭神
歴史
創建
関東州は日露戦争の結果、1905年(明治38年)のポーツマス条約に基づいてロシア帝国が保持していた清朝からの租借権を引き継いだ地域である。
以降増加した在留邦人の信仰の中心として大正初期からしばしば官社創建が企図されたが実現に至らななかった。
しかし、満洲国が1932年(昭和7年)に建国されて以降、さらに関東局として施政30周年事業として官社創立の方針をたて、準備・調査を進め、1936年(昭和11年)12月19日付で駐満全権大使から内閣総理大臣宛に神社創立を稟申した。内閣による協議の結果、1938年(昭和13年)6月1日の内閣告示によって神宮創立が仰出された[3]。
同年中に造営事務を掌る関東神宮造営事務局、同年11月3日には関東神宮外苑の造成と奉献を目的とする関東神宮造営奉賛会がそれぞれ関東州庁内に組織された。
内苑の工事は昭和13年度以降五ヶ年で計画され、1938年(昭和13年)7月3日に地鎮祭が行われた。土木工事から着手し、本殿・祝詞殿・翼廊・内拝殿・廻廊・昇廊など工を進め、社務所・斎館等が1943年(昭和18年)8月に着工、鎮座祭までにいずれも竣功した。
外苑の工事は1940年(昭和15年)10月に計画が確定し、1941年(昭和16年)6月26日に地鎮祭が行われた。
外苑は、在来の関東州庁の公園や博物館を再整備し、総面積15万坪にわたって絵画館や馬術場などを新設する予定であったが、着工後は資材難のため施工できず、終戦まで工事が中断されたままとなった。
鎮座祭
1944年(昭和19年)9月28日、宮内省から勅使・庭田重行により御霊代が大連空港に到着。警察、関東州庁、陸・海軍等の警備車列とともに内苑に到着した。このころ既に戦局が悪化していたため、御霊代到着の詳細は上層部のみに通達され、予行練習も演習・訓練等の名目で密かに行われた。
鎮座祭は同年10月1日午前10時より執行された。御霊代が本殿に奉安され、宮司・佐藤重三郎による降神の祝詞の奉読を終えて御祭神鎮座となった。
なおこのために「鎮座祭奉祝歌」が作られたが、作詞作曲者、旋律は伝わっていない。
1、日の丸の旗風晴れて、大亜細亜明けゆく朝、聖(きよ)き旅順の杜に、おごそかに祭る大宮、あな尊(とをと)関東神宮
2、日の本の護りの神を、二柱斎(いつ)き祀りて、神徳の耀(かがよ)ふところ、大陸の民いま安し、あな畏(かしこ)関東神宮
— 鎮座祭奉祝歌、高山勝司編『関東神宮』(関東神宮奉賛会、1949年)。
3、秋風の爽かにわたる、神垣にわれら集いて、鎮座祭祝いまつれば、よろこびの心はおどる、あな清(さや)け 関東神宮
4、今日よりは神のみ前に、醜(しこ)撃たん誠ささげて、いざわれら強くりりしく、みいくさに奮い起つべし、あな仰げ関東神宮
神宮の運営
神宮の運営は「関東神宮職員令」により宮司(1人)・禰宜(1人)・主典(6人)が置かれ[4]、関東局発令により庶務課、祭儀課、会計課、守衛の職務が規定された。
神宮では神札授与所での神札、御守、絵葉書の授与をはじめ、結婚式の催行や、旅順市民向けの「神道講座」などが常時行われた。
1944年(昭和19年)内には梅津美治郎、東條英機、植田謙吉など多数の高級軍人が参拝し、また1945年(昭和20年)早春にはヴァイオリニスト・辻久子がハルビン交響楽団とともに「海行かば」の奉納演奏を行っている。
終戦と昇神・廃止
関東神宮は鎮座祭以降、終戦までに数度の空襲に見舞われたが、大きな被害はなかった。しかし1945年(昭和20年)6月に入り神宮神職に対しては次々に臨時召集が行われた。
同年8月15日ポツダム宣言受諾により終戦。
8月17日、全職員により「終戦奉告祭」執行。
佐藤宮司はその後、大連の関東州庁を訪れて関東神宮御霊代の内地奉遷を懇請した。州庁側もその熱意に応えて善処するとしたが、後刻に関東軍・関東州庁ともに自由に使用できる船舶・飛行機がひとつもなく、「この上は神宮自体の決断で、御神霊の昇天を願うように」と連絡された。
8月18日午前0時、「昇神式」執行。
以後、ソ連軍引き渡しのための神宮職員による台帳整理、祭具他の焼却作業が行われた。
8月23日、旅順に到達したソ連軍による敷地接収を受け、以降は日本軍高級将校・文官の宿舎に使用する旨通達される。
9月末、ソ連軍による旅順の要塞地帯指定により、在留中国人・日本人の退去が通達された。これにより神宮職員をはじめ一切の日本人は旅順市街から退去した。
11月17日「外務省告示第11号」により南洋神社と共に正式に廃止が公布[5]。
境内
内苑
内苑は創建以前は都市公園化されていた旅順新市街東北丘陵地に位置する大正公園を中心に、二登子山・磨盤山・老朶山を含んだ面積16万余坪(53万㎡)の宏大な神域であった。
着工時には次の施設が計画され、設計は挙げて神祇院造営課長・角南隆の考案とされる[6]。
社殿はすべて銅板葺・素木造、総建坪550坪。
以上は暖房の都合上外壁煉瓦造漆喰仕上銅板葺。700坪 その他、鳥居、斎館、貴賓館、小建物等。
外苑
外苑は創建以前から関東州庁博物館を中心として動物園・植物園・後楽園などが整備されていた一帯を再整備して造成された。しかし戦局の悪化によって施設計画のほとんどは工事中・未着工のまま終戦を迎えている。
関東神宮の郵便切手
関東州における郵政事業を担当していた関東逓信局が1944年(昭和19年)10月1日に「関東神宮鎮座記念」の記念切手2種(3銭と7銭)を発行している。デザインは共通で関東神宮の本殿と関東州の地図をあしらったものである。なお、この記念切手は戦時中最後に発行された記念切手であり、発売当初は入手は困難であったが、国民にはすでに趣味で切手を購入する余裕はなかった。また印刷は民間の共同印刷株式会社が担当したが、印刷技術も切手用紙の質も戦前のレベルよりも粗雑である。なお戦後昭和40年から昭和50年頃の切手ブームの際に多数の模刻品(偽物)が出回り現在もフリーマーケットアプリやインターネットオークション等で多数見かけるに至る。
