関柴合戦
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伊達氏と蘆名氏
伊達氏と蘆名氏は、天正年間前期には関係が非常に良好であり、蘆名盛氏が輝宗の次男竺丸を蘆名盛興の養子に懇願するほどであった。関係の悪化には、二階堂氏から養子に入った蘆名盛隆が天正8年(1580年)の盛氏死後に佐竹氏へ接近し、天正9年(1581年)の佐竹義重の黒川城訪問により佐竹氏による奥州一統が成立した事や、二階堂氏を支援する蘆名氏と田村氏を支援する伊達氏の対立構造の確立、蘆名盛興・盛氏・盛隆の相次ぐ死去により、蘆名家中の首脳陣と伊達氏との関係の希薄化、金上盛備による佐竹氏への傾倒及び反伊達化などが挙げられる。また、蘆名盛隆の急死は、伊達家の伊達政宗への家督継承を急がせた[4]。新しく当主となった政宗の外交方針により、蘆名・伊達・最上による対上杉の協調関係は崩壊し、伊達・上杉による不可侵関係が成立した。