伊達政道
安土桃山時代の武将。伊達輝宗の次男
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生涯
誕生
蘆名氏の家督を巡って
巷談では、母の義姫は最上氏と対立した政宗よりも弟の小次郎を愛したため、伊達氏内部で政宗と小次郎による家督争いが起こった、とされるが、輝宗はそれ以前の天正12年(1584年)には政宗に家督を譲っている。
歴史学者の小林清治は、政宗の家督継承が蘆名盛隆暗殺事件と同じ月であったこと、輝宗が蘆名盛氏(盛隆の養父)に対して次男(後の小次郎)が成長した後に盛氏に奉公させる、すなわち蘆名氏に入れる相談をしたと記す書状が現存する[注釈 3]こと、更に後の小田原征伐直前に政宗が豊臣政権に対して蘆名氏討伐の理由に「父の輝宗が蘆名家より(政宗の)弟を蘆名の当主にする約束をされていたのに、その後佐竹氏から養子を迎えた」と主張している記録[1]があることに注目し、蘆名盛隆暗殺直後にも小次郎を蘆名氏の当主に迎え入れる話が上っていたものの、佐竹氏の妨害によって失敗したことが伊達氏の当主交代の一因であったと主張している(輝宗は盛隆死去の翌年に死去しているため、後年の家督争い時には関わっていない)[2]。
天正15年(1587年)、再び蘆名氏の後継者問題が起こると、小次郎が蘆名氏の当主として推薦されたが、蘆名氏の執権である金上盛備の策略によって、佐竹義重の子・蘆名義広が当主となった。
晩年と最期
天正15年(1587年)7月14日、小次郎は兄の政宗と共に、夏刈の資福寺に出かけ、父の御廟を参詣。米沢城に帰城後は母の住む御東を訪れる。
小次郎は兄弟対立の末、政宗によって殺されたといわれることが多い。政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣する挨拶のため、母の義姫の招きを受けて赴いたとき、義姫と小次郎によって政宗は毒殺されかけ、これがきっかけで政宗自ら小次郎を殺害した、または、義姫の政宗への毒殺未遂の責任を取って自害(陰腹)した等諸説あるが、これらは出典が江戸時代の書物『治家記録』であるため、後世の創作であるともいわれている[注釈 4]。小次郎の死因については確たる史料が無く、謎のままである。