阿史那元慶 From Wikipedia, the free encyclopedia 阿史那元慶(あしな げんけい、拼音:Āshǐnà Yuánqìng、? - 692年)は、西突厥の可汗で、唐の軍人。阿史那弥射の子。 垂拱(685年 - 688年)の初め、唐は弥射の子で左豹韜衛翊府中郎将の元慶を左玉鈐衛将軍兼崑陵都護に抜擢し、興昔亡可汗(こうせきぼうかがん)[1]を襲名させ、五咄六部落[2]をとりしまらせた。また、歩真の子の斛瑟羅を右玉鈐衛将軍兼濛池都護とし、五弩失畢部落をとりしまらせ、唐は元慶を左衛大将軍に昇進させた。 如意元年(692年)、元慶は彼が謀反を謀ったという来俊臣の讒言にあって殺害され[3]、その子の阿史那献は崖州へ流刑に処された[4][5]。 子 阿史那献 脚注 ↑ 「先に亡びたものを復興するカガン」の意。(佐口・山田・護 1972,p246-247) ↑ 「都陸」「咄陸」とも音写される(佐口・山田・護 1972,p246-247)。内藤みどりは咄陸・咄六・都陸・都六を突厥と同じく、Türk,Türükを写したものであるとしている(内藤 1988,p153-158)。 ↑ 『新唐書』では「皇太子に拝謁したという罪を負わされ、来俊臣の讒言をうけて腰斬の刑(斧鉞で胴切りにする刑罰)に処された」としている。 ↑ 『新唐書』では「振州に流した」としている。 ↑ 『旧唐書』列伝第一百四十四下 参考資料 『旧唐書』(列伝第一百四十四下 突厥下) 『新唐書』(列伝一百四十下 西突厥) 佐口・山田・護訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年、平凡社) 内藤みどり『西突厥史の研究』(1988年、早稲田大学出版部、ISBN 4657882155) 表話編歴西突厥の可汗大可汗 阿波可汗581-587 / 泥利可汗587-604 / 泥撅処羅可汗603-611 / 射匱可汗611-618 / 統葉護可汗618-628 / 莫賀咄侯屈利俟毘可汗628-630 / 肆葉護可汗628-632 / 咄陸可汗632-634 / 沙鉢羅咥利失可汗634-639 / 乙毘咄陸可汗638-642 / 乙屈利失乙毘可汗639-640 / 乙毘沙鉢羅葉護可汗640-641 / 乙毘射匱可汗641-651 / 沙鉢羅可汗651-657 弥射家 奚利邲咄陸可汗657-662 / 興昔亡可汗元慶685-693 / 興昔亡可汗献708-717 / 興昔亡可汗震735-736 歩真家 継往絶可汗657-666 / 竭忠事主可汗686-703 / 十姓可汗懐道704-708 / 十姓可汗昕740-742 Related Articles