阿史那懐道 From Wikipedia, the free encyclopedia 阿史那 懐道(あしな かいどう、拼音:Āshǐnà Huáidào、生没年不詳)は、西突厥の可汗。阿史那斛瑟羅の子。右屯衛大将軍・光禄卿・太僕卿・十姓可汗・濛池都護となる。 左衛大将軍兼平西軍大総管の阿史那斛瑟羅が亡くなると、武周は子の懐道を右武衛将軍とした。 長安4年(704年)、武周は懐道を十姓(オン・オク:西突厥)可汗・濛池都護とした。 神龍年間(705年 - 707年)、さらに懐道は右屯衛大将軍・光禄卿・太僕卿・十姓可汗・濛池都護となった[1]。 懐道が亡くなると、子の阿史那昕が後を継いで十姓可汗となる。 子女 阿史那昕 - 十姓可汗・開府儀同三司・濛池都護 交河公主 - 蘇禄の妻 脚注 ↑ 松田寿男はこの「濛池都護」という官名に注意し、「これはもともと継往絶可汗の兼領で、突騎施に没した弩失畢五姓の首領を意味する。十姓のうちの半数だけを統制するはずのこの可汗が、ここでは十姓可汗を号しているのである。このことは、唐の冊立した十姓可汗が、あくまでも突騎施に対抗する目的に終始した、いわば唐朝が立てた対抗馬にほかならないことを、語っているではないか」といい、「ところが、この最初の対抗馬はみごとに失敗したらしく、これに代わって、阿史那献の冊立となった次第である」としている。(松田寿男「碎葉と焉耆」) 参考資料 『旧唐書』列伝一百四十四下 突厥下 『新唐書』列伝一百四十下 突厥下 佐口・山田・護訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年、平凡社) 表話編歴西突厥の可汗大可汗 阿波可汗581-587 / 泥利可汗587-604 / 泥撅処羅可汗603-611 / 射匱可汗611-618 / 統葉護可汗618-628 / 莫賀咄侯屈利俟毘可汗628-630 / 肆葉護可汗628-632 / 咄陸可汗632-634 / 沙鉢羅咥利失可汗634-639 / 乙毘咄陸可汗638-642 / 乙屈利失乙毘可汗639-640 / 乙毘沙鉢羅葉護可汗640-641 / 乙毘射匱可汗641-651 / 沙鉢羅可汗651-657 弥射家 奚利邲咄陸可汗657-662 / 興昔亡可汗元慶685-693 / 興昔亡可汗献708-717 / 興昔亡可汗震735-736 歩真家 継往絶可汗657-666 / 竭忠事主可汗686-703 / 十姓可汗懐道704-708 / 十姓可汗昕740-742 Related Articles