阿薫が宗春の側室となった同月に吉子内親王が出家したこと、乾御殿が造営されたこと、『阿薫和歌集』序文の解読などから阿薫が霊元天皇(霊元法皇)第13皇女の吉子内親王本人である、とする説[3]がある。
内親王は正徳4年8月22日(1714年9月30日)に産まれ、翌年に江戸幕府征夷大将軍徳川家継の婚約者と定められたが、家継が7歳で早世したため3歳で将軍の後家となった。享保17年10月29日(1732年12月16日)、父法皇の死後二月で18歳で出家し、45歳で死去したとされている。また、霊元法皇は反幕府的な言動で知られる。吉子内親王は霊元法皇の譲位後の子であり、母の身分が比較的低いため(中宮や女御ではない)、慣例としては女王とされるところを、親王宣下され内親王となっている。この措置は、法皇は将軍の後家として出家させるつもりはなく、どこか高い身分の家に嫁がせる算段であり、そのために身分を一段上げたのではないか、とも推測される。
阿薫の父は浪人であったはずなのだが、阿薫は幼少期より冷泉家から和歌を学んでいる。