長男の阿部正定は宗家(白河藩)を継いだため、次男の阿部正外が父の跡を継いだが、後に幕命で正外が宗家(白河藩)を継ぎ老中となった。
三男阿部邦之助(1839-1895、別名・阿部潜)は旗本の曾根家に養子入りしていたが、兄の正外が宗家を相続するに際して実家に戻り、これを相続した。歩兵差図役頭取勤方、寄合から、1867年に目付となり、維新後は公議所御用取扱として議事制度創設に尽力した[1]。陸軍頭、陸軍重立取扱を経て徳川家の駿河移封に随行し、沼津兵学校創始者の一人となった。1869年沼津奉行、静岡藩少参事兼軍事掛ののち、1870年に広島藩、鹿児島藩に御貸人として派遣され、広島藩兵学校の設立顧問などを務める[1]。1871年大蔵省七等出仕。大蔵理事官随行として岩倉使節団に参加し[2]、帰国後官を辞して、尾去沢銅山、大葛金山経営や養蚕・醤油醸造事業などを手掛けた[1][3]。