浅野長祚
1816-1880, 江戸時代末期~明治時代の幕臣、蔵書家、芸術鑑定家
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略歴
文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった[2]。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。12歳の頃から友野霞舟に師事する。 出羽亀田藩主岩城隆喜の3女直子と結婚。天保10年(1839年)に使番、同12年(1841年)に7月目付に就任。翌年10月には甲府勤番支配。甲府に設置された幕府の学問所徽典館の初代学頭に、昌平坂学問所から恩師の友野霞舟と乙骨耐軒を招いた。「徽典館」は大学頭の林述斎が命名し、徽典館の教則は全て霞舟が作成、松平定信筆の扁額が掲げられた[3]。
病のため江戸に戻って致仕を願うに至ったが、時の執政・阿部正弘が才を惜しみ、弘化2年(1845年)3月には先手鉄砲頭、同4年(1847年)5月に浦賀奉行に転じ、以後5年間在職する。浦賀時代に建白して、任が重くなったにも関わらず遠国奉行の末席だった浦賀奉行の席次を、長崎奉行の次席とするに至った[4]。
この間、嘉永2年(1849年)に相模湾にイギリス船マリナー号が停泊する事件が発生。奉行として処理に当たるが、マリナー号来航時の直接体験(異国船申付等)を踏まえ、浦賀を初めとする江戸近海の防備状況の貧弱さを痛感し、嘉永2年内題『防海策に再稿』と題する幕府への意見書(上書)を執筆・提出するなど、江戸にたびたび防備の強化を上申した。
大砲の弾薬、兵糧ともに在庫がほとんど無く、外国艦接近のたびに近隣の商人から借財して軍備を整えるという惨状で「其砲とても、多くは旧式にて、たまたま少数の洋式砲あるも、弾丸の備は僅に数発に留まり、甚しきは全く弾丸なきもありて、火薬も亦之に準ず。戦艦と称すべきものは固より有ることなく、先年奉行より軍艦の製造を請へるに、御沙汰に及び難しとて僅に押送船一艘の増加を許され、非常金の備なく、事ある時は町人に立替へせしめ、五七箇月を過ぎて代金を下げ渡すを常とすれども、異変の際は町人恐怖して立替の命に応ぜざるべきが故に、水主・船頭・多人数の兵糧先づ欠乏して、一日の防戦も覚束なし」[5]に業を煮やし、辞表を提出した。
従来の打払政策について「国体を損ない、無用な戦争を引き起こす手も足も出ない悪手」と位置付け、形式的な打ち払いの危険性と限界を厳しく批判、通商禁止(鎖国)は絶対の祖法ではなくキリスト教禁止のための臨時制度に過ぎないと見なし、英国や露国など「強国」に限定的な通商を認め、同盟関係を結ぶことで他の外国船を退ける「夷を以て夷を制す」構想を打ち出した。交易による利益(富国)を基盤にして、大砲・巨艦の製造や軍備強化(強兵)を進めるべきだと主張、日本人も自ら外国に渡航して積極的に貿易を行う「好対等互市(対等貿易)」や、富国強兵のインフラ構築の必要性を唱えた[6]。また高野長英の弟子であり数学・測量・航海・砲術に秀でた内田五観や、尚歯会に所属し高島秋帆から西洋砲術を学んで佐久間象山を指導した下曽根信敦らの名を挙げ、彼らのような本格派の実務技術者の必要性を説き、老中・阿部正弘へ直接上申した[7]。
この浦賀奉行在任時の嘉永2年(1849年)6月24日、生涯の恩師で昌平坂学問所教授であった友野霞舟が亡くなる。霞舟重体の報を受けた梅堂と、同門の川路聖謨は激しい衝撃と悲しみに包まれ、梅堂は師の最期の枕元へと駆けつけた。病床の霞舟は、身体が痩せ衰えながらも心は安らかであり、自らの生涯を静かに振り返る「絶命詩」を梅堂に託した。梅堂と霞舟の縁は、単なる師弟関係を超え、まるで実の親子のように親密で、学問や人生のあらゆる悩みを相談し合ってきた間柄であった。梅堂は書状の中で「12歳の頃から受けた師の恩徳は言い尽くせず、先生のことを聞いて大いに悲しみ、夢かと思うばかりだった」とその痛恨の情を吐露している。梅堂は、師が死の直前に詠んだその悲壮な詩(「性命託天身託医…」)を、溢れ出る涙で眼前が遮られるほどの落涙と嗚咽の中で書き写した。梅堂は、師・霞舟について「幼少より大儒となり、至誠をもって人に接し、死ぬ直前まで少しも己の功績や私心を誇ることがなかった」とその温厚で真摯な人柄を称え、師が遺した「至誠の一字」と「詩の意気」を胸に刻んだ。師の葬儀を無事に済ませた後、梅堂は深い惜別の情が消えぬまま、国家の防衛を担う激務の地・浦賀へと戻った。浦賀で過ごす日々の中でも、師を失った悲しみを打ち消すように目の前の劇務に取り組みつつ、江戸に留まる愛妻と連絡を取り合い、生涯を通じて師の志を抱き続けた[8]。
嘉永5年(1852年)閏2月10日[9]、京都西町奉行に転任となった。京都在任中は町奉行所与力平塚瓢斎の助力も得て洛中洛外の山陵調査にあたり、「歴代廟陵考補遺」を著す。安政元年(1854年)4月に皇居炎上後は川路聖謨らと共に禁裏造営掛となり、作事奉行を兼務して現在の京都御所の再建に尽力、『安政御造営誌』をまとめた[10]。 同5年(1858年)の日米修好通商条約締結に際し、老中堀田正睦(下総佐倉藩主)が上京して条約勅許を得るための交渉を行った際には、同行した川路や岩瀬忠震と共に対公家工作を行った。しかし条約勅許は得られず、かえって将軍継嗣問題で一橋派と目されたため、失脚した堀田に代わって政権についた大老井伊直弼(近江彦根藩主)に疎まれ、同年6月小普請奉行に左遷される。翌年8月には免職となった。
桜田門外の変で井伊が暗殺された後、文久2年(1862年)7月に寄合から寄合肝煎に挙げられ、同10月に江戸北町奉行に任ぜられた。しかし翌年4月には作事奉行、同年末には西丸留守居に転じて第一線から退き、慶応3年(1867年)に致仕。向島に隠居し、後に入谷に転じ、詩文・書画に没頭した。
明治13年(1880年)に没。享年65。墓所は台東区谷中の安立院。法号は文荘院殿梅堂帰夢軒居士。墓碑は娘・花子の夫である川路寛堂が書いている[11]。
芸術家として

書は杉浦西涯に学び、画は栗本翠庵・椿椿山に師事し、万延元年(1860年)に木村芥舟の依頼で描かれた『雑花果蓏図』など多くの作品を残す。書画鑑定家としても名高く、中国書画の研究では当時第一人者と称された。
鍋島直興とは莫逆の友で、直興は藩主を隠居した後、文芸・書画を専らとし、自らの著述や研究(越後新発田の武野早蔵の遺稿・武芸・歌道・説戒など)を『錙銖集』としてまとめる。梅堂はこの直興の学問的・芸術的見識を高く評価し、終生にわたり文雅の交わりを続けた。直興が所蔵していた名品・書画(僧・鉄翁素門らの書画)を木版8枚で印刷・出版する際、梅堂はその刊行を大いに助け、みずから序文を執筆した。この本には梅堂のほかに、林復斎や市河米庵が題詞や序跋を寄せており、豪華絢爛な文人サロンが形成されていたことが分かる。梅堂はこの序文の中で、この出版を手掛けた江戸の名工「木村嘉平」の技術を「縦横馳騁、まさに名筆と見まがうばかり」と絶賛し、長崎の文人画の巨匠・鉄翁祖門が上京した際、梅堂の元に多数の書画を持ち持ち込み、梅堂がこれを絶賛して買い求めたエピソードや、小曽根乾堂らを通じて長崎の南画・文化が梅堂や直興のネットワークへともたらされていた様子が記されている[13]。
また蔵書家でもあり、所有書籍は5万巻に及んだといい、蔵書印に「浅野源氏五万巻図書之記」「漱芳閣」などを使用した[14][15]。
