陳之碩
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| 陳之碩 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1885年(光緒11年)[1] |
| 死去: | 没年不明(1946年10月12日時点では生存) |
| 出身地: |
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| 職業: | 財務官僚 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 陳之碩 |
| 簡体字: | 陈之硕 |
| 拼音: | Chén Zhīshuò |
| ラテン字: | Ch'en Chih-shuo |
| 和名表記: | ちん しせき |
| 発音転記: | チェン・チーシュオ(チェン・ジーシュオ) |
陳 之碩(ちん しせき、1885年〈光緒11年〉 - 没年不明)は、中華民国の財務官僚。別号は君彦[2][3]、君衍[1][3]。北京政府から官歴を有し、国民軍の属官となったこともある。蔣介石国民政府では審計部部長代理をつとめ、後に南京国民政府(汪兆銘政権)では経済・財政・金融分野の要職を歴任した。なお戦前の日本では、何故か1937年より前の経歴について不明な人物として扱われていた[注 1]。
初期の活動
1906年(光緒32年)秋、張立卿らと共に中国同盟会陝西分会を組織した[4]。中華民国成立後、北京政府において財政部公債司第四科弁事員、同司第三科科長を歴任する。1924年(民国13年)12月27日、国民軍第2軍軍長・胡景翼[注 2]の下で陳之碩は河南省財政庁庁長として起用されたが[5]、翌1925年(民国14年)4月に胡が死去した前後で陳は退任したと見られる[6]。
国民政府においては、1934年(民国23年)11月19日に審計部政務次長として抜擢される[注 3]。翌1935年(民国24年)2月14日、部長・李元鼎が依願退職したため、陳が部務(部長)代理となった。林雲陔が1936年(民国25年)8月8日に審計部長に任命されると、陳は政務次長専任に戻るが、翌1937年(民国26年)2月6日に依願退職している[5]。
汪兆銘政権での活動
その後、汪兆銘(汪精衛)の親日政権樹立活動に陳之碩は参加した。1939年(民国28年)8月に上海で開かれた中国国民党(汪派)第6回全国代表大会(六全大会)において、陳は中央委員会委員に選出されている[2]。1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立すると、陳は財政部常務次長として抜擢された[7]。更に中央政治委員会財政専門委員会主任委員も兼任している[8]。同年12月、中央儲備銀行が創立されると、常務理事に選任された[9]。
1941年(民国30年)10月に糧食管理委員会常任委員[10]、1943年(民国32年)2月に敵産管理委員会委員兼秘書長を兼任する[11]。同月、国民政府で政務次長・常務次長の次長2人制が廃止されると、陳之碩が単独で財政部次長となり[12]、汪兆銘政権崩壊まで在任している。そのほかにも国民政府政務参賛、全国経済委員会常務委員[13]、建設公債管理委員会常務委員[2]などを兼任・歴任した。なお、1943年3月29日には一級同光勲章を授与されている[14]。
末路
汪兆銘政権が崩壊すると、陳之碩は漢奸として蔣介石国民政府に逮捕された。1946年(民国35年)10月12日、上海高等法院にて死刑判決を下されている[15][注 4]。ただし、その後の審理状況や動向について情報が見当たらず、実際に死刑を執行されたかどうかは不明である。