『宋史』に伝がある[5]。神宗・哲宗・徽宗の時代に活動した。
字は農師、号は陶山、越州山陰(現在の浙江省紹興市)の人。1070年(熙寧3年)の省試で首席(省元)、殿試では第5位で合格した[6]。王安石の弟子でありながら「新法・旧法の争い」では中立の立場をとった[4]。徽宗の時代に尚書左丞(副宰相・参知政事にあたる)となったが[4]、元祐党禁(中国語版)(旧法党への弾圧)に巻き込まれ左遷された[3]。
友人に李公麟がおり官職に推挙した[7]。『神宗実録』の編纂に参加したとき黄庭堅と論争した[3]。遼への使者も務めた[8]。子に陸宰、その子に陸游がいる[4]。