陸思鐸

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陸 思鐸(りく したく、890年 - 943年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫澶州臨黄県[1][2]

陸再端の子として生まれた。軍事的才幹があり、朱全忠が四節度使を領すると、思鐸はその麾下に属した。開平元年(907年)、後梁の太祖(朱全忠)が即位すると、思鐸は広武軍都指揮使に任じられた。突陣軍使や拱宸軍使を歴任し、前後に戦功を重ねて、検校司徒・拱宸軍左廂都指揮使に累進し、恩州刺史を遥領した。梁軍が晋王李存勗と黄河で対陣すると、思鐸は弓射を得意としたので、連日その戦いに参加した。ある日、思鐸の矢が李存勗の馬鞍に射当てた。李存勗は矢を抜いて見ると、思鐸の姓名が書かれていたので、これを記録しておいた[1][2]

同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が後梁を平定すると、思鐸は後唐に降伏した。荘宗がかつての矢を出して思鐸に見せると、思鐸は地に伏せて処罰を待った。荘宗は思鐸を慰撫して罪を許した。ほどなく思鐸は龍武軍右廂都指揮使に任じられ、検校太保を加えられた。天成元年(926年)、深州刺史となり、雄捷軍右廂馬軍都指揮使に転じた。荊南に対する征討に参加した。高季興が水軍により唐軍を防ぐと、思鐸は矢を放つごとに敵に射当て、敵兵の胸をえぐって腋に達したため、荊南軍はひるんで前進できなくなった[1][2]

天福元年(936年)、石敬瑭により後晋が建てられると、思鐸は陳州刺史に任じられた。任期を満了すると、左神武軍統軍となった[1][3]。天福5年(940年)、右羽林軍統軍に転じた[4]蔡州刺史として出向し、交代に遭って帰朝した。天福8年(943年)、病没した。享年は54。陳州に葬られた[1][3]

脚注

伝記資料

参考文献

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