陸扆
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光啓2年(886年)、進士に及第した。この年のうちに僖宗が興元府に避難するのに従った。9月、宰相の韋昭度が塩鉄転運使を領知すると、陸扆はその下で巡官をつとめた。光啓3年(887年)、宰相の孔緯の推挙により史館に宿直し、校書郎となった。ほどなく母が死去したため、陸扆は辞職して喪に服した。龍紀元年(889年)冬、藍田県尉に任じられ、弘文館に宿直した。左拾遺に転じ、集賢院学士を兼ねた。御史中丞の柳玭の推挙により監察御史に転じた。大順2年(891年)3月、翰林学士をつとめた。屯田員外郎に転じ、緋魚袋を賜った。景福元年(892年)、祠部郎中・知制誥を加えられた。景福2年(893年)5月、中書舎人に任じられた[1][3]。
乾寧元年(894年)、陸扆は戸部侍郎に転じた。乾寧2年(895年)、兵部侍郎となり、銀青光禄大夫の位を受け、嘉興県男に封じられた。乾寧3年(896年)1月、翰林学士承旨に任じられ、ほどなく尚書左丞に転じた。この年の7月、戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。8月、中書侍郎・集賢院大学士・判戸部事を加えられた[1][3]。
9月、嗣覃王李嗣周が軍を率いて徐彦若を鳳翔府に送った。陸扆は親王が兵を率いることはよろしくないと反対した。昭宗はすでに出兵した後に、陸扆が異議を唱えたことに怒り、硤州刺史に左遷した。はたして李嗣周の軍は李茂貞に敗れ、昭宗は華州に避難することになった。乾寧4年(897年)2月、陸扆は工部尚書として華州の朝廷に復帰した。8月、兵部尚書に転じ、昭宗に従って華州から長安に帰った[4][3]。
乾寧5年(898年)1月、陸扆は再び中書侍郎・同平章事となった。光化3年(900年)4月、戸部尚書を兼ね、呉郡開国公に封じられた。9月、門下侍郎・監修国史に転じた。天復元年(901年)5月、特進となり、兵部尚書を兼ねた。天復3年(903年)、昭宗が鳳翔府から長安に帰ると、赦令の後に諸道に詔書を降したが、鳳翔府にだけは詔が降されなかった。陸扆はこれに反対した。権臣の崔胤は怒り、陸扆を沂王傅に左遷し、分司東都とし、階位を正議大夫に落とした。天復4年(904年)1月、崔胤が殺害されると、陸扆は吏部尚書として復帰した。天祐元年(同年)閏4月、昭宗に従って洛陽に赴いた。天祐2年(905年)5月、濮州司戸参軍に左遷された。6月、裴枢・崔遠・独孤損らとともに滑州白馬駅で殺害された(白馬の禍)。享年は59[5][6]。