(後列左から)伊地知弘一、東郷平八郎。
(前列左から)隈崎守約、赤塚源六、前田献吉
嘉永元年(1848年)生まれ。早くから海軍を志し、明治2年(1869年)、官軍海軍士官として軍艦春日丸に乗り組み、宮古湾海戦および箱館戦争に参加した。このとき同艦には東郷平八郎らも乗艦していた。
明治7年(1874年)に海軍大尉に進級。同年、日本と清国との間で台湾出兵をめぐる緊張が高まる中、大久保利通が全権弁理大臣として清国に派遣され、隈崎は海軍大尉としてこれに随行した。
明治10年(1877年)の西南戦争では、軍艦龍驤副長として従軍。同年、暴風雨により龍驤が鹿児島湾で座礁する事故が発生したが、艦長福島敬典不在下での不可抗力によるものと判断され、隈崎は明治12年(1879年)に正式に「罪を免ず」と裁定された。
戦後は順調に昇進し、明治10年に海軍少佐、明治17年(1884年)に海軍中佐となった。その後、軍艦清輝・海門・比叡の各艦長を歴任し、将来を嘱望される存在であった。
明治20年(1887年)10月11日死去。享年39。性格は豪放磊落で、体格は小太りながら容貌端正、「ヨカニセサア(好青年)」として薩摩海軍仲間から広く慕われたと伝えられる。
家族としては、三女・千賀が海軍少将・竹内次郎に嫁いでいる。