伊地知弘一

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伊地知 弘一(いじち こういち、弘化3年(1846年) - 明治28年(1895年1月28日[1])は、明治時代海軍軍人薩摩藩出身。最終階級は海軍大佐[2]。幼名は伊地知休八。父は伊地知甚左衛門。東郷平八郎の同郷であり、若き日の親友として知られる。

(後列左から)伊地知弘一、東郷平八郎。 (前列左から)隈崎佐七郎赤塚源六前田献吉

薩摩国(現在の鹿児島県)に生まれる。少年期は造士館で漢学を学び、東郷平八郎黒木為楨らと共に相撲や水泳を好んだという [3]

戊辰戦争では、東郷らと共に薩摩藩軍艦春日丸に乗り組み、新潟・箱館方面に転戦。阿波沖海戦宮古湾海戦箱館戦争などに参加した。特に二股口の戦いでは、東郷と二人で上陸し戦況を視察したと伝えられる。

明治4年(1871年)2月22日、海軍兵学寮生徒中佐記として外国留学を命ぜられ、英国および米国に留学した。留学生の同僚には東郷平八郎原田宗助吉田顕蔵らがいた [4]

帰国後は海軍省勤務を経て、明治19年(1886年)1月、海軍兵学校次長兼教務総理に就任。英国式教育を取り入れた経験を生かし、兵学校の改革に尽力した。特に同年に提出した建言書「兵学校ヲ僻地ニ移転スルノ理由」において、

第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を堅実ならしむるに在り。

第二、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精神勉励の一途に赴かしむるに在り。

第三、生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都会を避くるを良策とす。

と論じ、兵学校の築地から江田島への移転を強く提唱した。この提言が採用され、のちに江田島海軍兵学校が創設された。また、西郷隆盛大久保利通の誕生地記念碑建設の主唱者でもあり、郷土の顕彰活動にも関わったとされる。

その他、孟春清輝東艦比叡高千穂厳島の艦長を歴任した[5]

人物

東郷平八郎と並ぶ留学組として知られ、温厚で学識に富み、才気ある人物であったと伝えられる。東郷とは終生の親交を保ち、のちに東郷を顕彰した関係者の回想にもその名が見られる。

栄典

脚注

参考文献

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