露朝国境
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交差する交通路

北朝鮮とロシアを直接結ぶ交通路は、豆満江にかかる朝鮮・ロシア友情橋のみである[2]。この橋は単線の鉄道橋で、旅客列車と貨物列車が通過する[2]。橋の800メートル北東のハサンにロシア側の鉄道駅・ハサン駅があり、北朝鮮側には豆満江駅がある。両国間の鉄道は軌間が異なるため、豆満江駅で台車の交換が行われる。貨物列車は荷の積み替えが行われる。
友情橋を通る旅客列車には、ウスリースク駅・豆満江駅間のローカル国際列車の他、北朝鮮国鉄によるモスクワ・平壌間の直通列車がある。直通列車は、モスクワからウスリースクまではモスクワ-ウラジオストク列車、ハサンまではウスリースク-豆満江列車、北朝鮮国内は北朝鮮国鉄の列車に併結されて運行される。運行距離は合計10,272kmで、世界最長距離の直通旅客列車である[5]。
北朝鮮側の国境駅である豆満江駅は、北朝鮮のビザ用紙に印刷された3つの国境通過点の一つ(あと2カ所は平壌(国際空港)と新義州(駅))であり、第三国人にも開かれた国境である。しかし、1990年代中盤に経済状況が悪化し、平壌とモスクワを結ぶ国際列車が新義州、丹東、瀋陽、満州里(すなわち中国)経由となった後は、露朝間のローカル交通路となっていた。ただし、2008年には2人の西洋人観光客が友情橋を渡る列車に乗車したほか[5]。2018年に入り外国人も露朝両国を結ぶ直通列車に乗車可能になった[6]。
2015年4月、ロシアと北朝鮮の副首相は、両国間の道路での接続に関する合意に署名した[7]。
歴史
ロシア帝国と清朝(冊封体制下の李氏朝鮮を含む)の国境は、1860年11月に北京条約によって制定された。この条約に基づいて、清朝はウスリー川以東の領土をロシアに割譲した。国境の元の記述には、豆満江の最下流20里(約10.75 - 13キロメートル)が含まれていた[8][9]。
独立国としての朝鮮の存在は、ロシア帝国と清朝の間の1860年の条約で言及されなかったが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、朝鮮における中国の影響は弱まり、日本の影響力が高まった。1895年の下関条約により朝鮮に対する清朝の冊封体制は終結され、1905年の第二次日韓協約により大韓帝国は日本の保護国となった。1910年の日韓併合条約により、日本は朝鮮を併合した。これにより、豆満江はロシア帝国(後にソビエト連邦)と大日本帝国との境界になった。これは1945年に朝鮮の日本統治が終了するまで続いた。
朝鮮の統治者が誰であるかに関わらず、ロシアと朝鮮の領土は、常に中国と日本海とを隔てていた。
1938年、ソ連は、沿岸地帯の天然資源を開発し、潜在する日本による侵略の危険性から国境を守るために、シベリア鉄道のバラノフスキー駅からクラスキノまでの鉄道路線の建設を開始した。190キロメートルの路線(後のバラノフスキー・ハサン鉄道)は1941年に完成した。第二次世界大戦後に、その路線はクラスキノからハサンまで延伸され、総延長は238キロメートルに達した。ハサン駅は1951年9月28日に営業を開始した。そのすぐ後に、豆満江に木製の一時的な橋が建設され、1952年に最初の列車がロシアから北朝鮮に渡った。
1990年、ソ連と北朝鮮は、豆満江の谷線に沿って国境を画定する合意に調印した。この際、旧鹿屯島(32平方キロメートル)はソ連領となったが、この合意を大韓民国は受け入れていない。
20世紀後半には、何千人もの難民や亡命者が露朝国境を越えて脱北した。彼らは現在、ロシアやその他の独立国家共同体諸国に住んでいる。