青野卯吉
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来歴
生い立ち
1844年4月30日(旧暦弘化元年3月13日)[7]、遠江国城東郡入山瀬村にて生まれた[1][† 1]。明治維新により幕藩体制が終わりを迎えると、世情の大きな変化は城東郡にも影響を及ぼした。城東郡は1871年(旧暦明治4年7月)より静岡県に属することになったが、同年(旧暦同年11月)に浜松県の管轄となり、1876年(明治9年)8月には再び静岡県に移管された。また、入山瀬村も今滝村、上土方村、下土方村、川久保村の大部分、中村の一部と合併することになり、1889年(明治22年)4月1日に土方村が設置された[† 2]。また、土方村においては1890年(明治23年)4月に土方銀行が創設された[2]。資本金は1万7000円であったが[2]、のちに増資され3万2000円に達している[2]。この土方銀行の事業に携わり[1][2][3]、その頭取にも就任していた[1][2][3]。
政治家として
その後、土方村が属する城東郡は佐野郡と合併し、1896年(明治29年)4月1日に小笠郡が設置された。その土方村においては村長に就任している[1][3][4]。村長在任中は、土方村から上内田村に抜ける風吹トンネルの開通に尽力した[1][5][6][† 3]。また、入山瀬の住民らの理解を得たうえで、1899年(明治32年)1月には入山瀬報徳社を創設した[5]。1907年(明治40年)4月18日に死去した[7]。
政策・主張
1991年11月22日時点(左)と2020年6月16日時点(右)の静岡県道249号掛川大東大須賀線(岩井寺‐入山瀬付近)。各写真の右上から右下を経て左下に向かうのが風吹トンネルを通る旧道である。2020年6月16日の写真の右上から左上を経て左下に向かうのは新設された風吹バイパスである
- 風吹トンネルの掘削
- 入山瀬村は明治の初め頃まで田畑も少なく[5]、村民は炭焼きや薪の販売などで生計を立てていた[5]。1877年(明治10年)頃より茶の栽培が始まったことで[5]、村民の生活も好転するかに思われた[5]。しかし、入山瀬村は三方を山に囲まれており[3][5]、風吹峠を越える道は「三町七曲がりの険」[3][† 4]と言われるほど険しく曲がりくねっていた[3]。この道は人馬がようやく通れるくらいの細い道であり[5]、通行には大変な困難を伴っていた[1][3][5]。収穫した茶葉などを掛川町で販売するにはこの道を通るほかなく[1][5][† 5]、大きな荷車での輸送ができないことから[3]、村民は大変な苦労を強いられていた。
- これでは市場価格が高い時に出荷できず[1]、村民の生活も向上しないと考えた靑野は[1]、トンネルを掘削するしかないと判断し[1][3][5]、村民たちに協力を求めた[1][6]。しかし、村民たちは山の岩が硬過ぎてトンネルは無理だと諦めてしまったことから[6][† 6]、靑野は一人で山に入り[1][6]、私財を投じて測量を開始した[5][6]。その結果、総工費は2000円超と見積もられたが[5]、入山瀬村の後身にあたる土方村の当時の年間予算ですら5000円程度に過ぎず[5]、靑野家の全財産を投じても到底足りないことから[6]、靑野は資金繰りに奔走することになる[5][6]。遠江国報徳社の岡田良一郎に相談し1000円を借りられたことで資金にも目途が立ち[5][8]、村民たちも再び協力してくれるようになったことから[1][6]、1900年(明治33年)より工事を開始した[5][8][9]。工事は難航し[1][8]、一メートル掘るのに5日かかるという状況であったが[1][8]、2年がかりで3つのトンネルを素掘りで完成させた[5]。これにより、村民は収穫した茶葉を荷車でいつでも 大量に出荷できるようになった[8]。
- その後、このトンネルは静岡県道249号掛川大東大須賀線として利用されてきた。1999年(平成11年)に風吹バイパスが開通したことから[10]、風吹トンネルはその役割を終えた[3][5]。